成瀬巳喜男監督の作品『女が階段を上る時』をみる

 川本三郎の本で成瀬巳喜男について書かれていたのがあってそれを読んで、成瀬巳喜男監督の作品は見たいと思っていた。ゴロネさん(id:gorone89)が『女が階段を上る時』はいいと仰っていたこともあり、みることにした。

 

 まず、度々いっていると思うけど自分は映画をめったに見ない。苦手といえば苦手だ。だからあまり参考にならないかもしれないが、以下、内容や感想を書く。

 内容は銀座のバーのママが店の場所を移ったり、クビの問題、お金の問題などについてだった。結局、なぜ女が階段を上るのか、上った時に何があるのか、ということはわからなかった(しかし、わかりたくない。わからないままにしておきたい)。つぎのナレーションがよかった。最初のところ。「秋も深い、ある午後のことだった。昼のバーは化粧のしない女の素顔だ。」

 はじめのほうから、ゆったりしている印象だった。音楽がそうさせているところがあるのかもしれない。銀座の外の風景がみれてよかった。銀行、温泉の看板、街並み(窓が多い)、丸い車、...。白黒だと銀座の夜(とくに看板)がよく映ると思った。看板の光でぼやけた感じもあれば、看板の光により文字がシャープに見えるものもあり、...。銀座に行って、写真を撮ってきたいと思った。

寺山修司著『さかさま博物誌 青蛾館』を読む

 寺山修司の『さかさま博物誌 青蛾館』を読んだ。250ページ程あり、ほとんどが2,3ページのエッセイで構成されている。あまり、特定のものに絞って書いているというわけではない。寺山修司の考えは面白いと思っている。本当のことを言っているのか、と思う事はあるけれども。どこからとってきたのかわからないところがおもしろい。それがずっと続いていて、いろいろなことを知っているのだ、と思う。印象にのこったところなどを紹介する。

 

 まず、この前読んだ赤瀬川のハイレッド・センターの記録でも出てきた高松次郎(ハイレッド・センターのハイ(高)にあたる人)について述べられてあったところ。寺山修司は自身の影を集めているようで、月の光や電燈のあかりで影ができると、そこに黒い羅紗紙を敷き、影の形を切りとり保存している。(p.14) 次のページで高松次郎の影シリーズにふれている。高松は人のいない壁やパーティの終わったロビーにある日ある一日にうつっていた影だけを描述し、本人がいない壁に影だけが残っているという非在の記録を通して人間に時の意味を問いかける。(p.15) また、フレドリック・ブラウンの小説には本体が影で、影こそ本体であり、影をピストルで撃ったら死んでしまった、という話もある。(p.15) 星新一の作品には「バーであった男」という話があって、バーにいる男が話してくれる。その男は車を運転しているときに、白い服を着ている人影があって、こちらをみてくる、と思ったとたんに消える、という体験をしていた。で、こちらをみてわらって、消えてしまうので馬鹿にしているのか、と思い、車の速度を上げたら、感触があった。その話は広がって、その出来事が起きた場所にひとびとは集まり…、。影について書いてあったので、そんな話を思い出した。影響というのは、どうして影が使われているのか、ということは疑問に思っている、語源が知りたい。影絵ももっと注目してみたいと思った。影はなんでできるのか、というのはずっと不思議に思っている。影は表情が少ない、と思うが、意外と、細かい。大きさはあまり表現してくれないが。

 

 次に印象にのこったところが寺山修司は机を持っていない、というところだ。寺山は原稿用紙と二、三本の鉛筆、読みかけの本をもって、周辺の喫茶店を転々と歩くのが道楽である。(p.15) 机がない、といっても、机にこだわりがないというわけではなくて、いろいろとあるようだ。以下引用。

 長いまとまった論文を書くときは、近くの小さな喫茶店の木製の卓を使う。[...]競馬に関するエッセイなどを書くときは、そこの二、三軒さきの中華料理屋のカウンターか、いつも古賀メロディーをかけている酒場のデコラ貼りの机が向いているように思われる。 フルーツパーラーのガラスのテーブルは、映画の感想などを書くのに向いているし、膝の上にのせた旅行鞄の横腹は、短歌を書くための机に早がわりする。『人生いたるところに机あり』なのである。(p.26)

 寺山は劇場だけで、劇をやっていていいのか、日常でも劇は起こるのではないか、ということを言っていたと思うが、そういうことなのか。いわれてみれば、寺山修司が自宅らしい机に座っている画像は見たことがない気がする。引用の最後にある旅行鞄の横腹で短歌を書く、というところがいいと思った。

 

 それから以下のような言葉も印象にのこった。これは寺山の友人が言っていたのだという。

[...]すると友人が言った。『見るという行為は、人間を部分的存在にしてしまう。もし、世界の全体を見ようとしたら目を閉じなければ駄目だ』と。(p.43)

 

読んだもの

寺山修司、『さかさま博物誌 青蛾館』、角川文庫、1980年(初版)

 

参考

星新一、「バーであった男」(『ご依頼の件』に収録されている)、新潮文庫、1991年(8刷)

 

食に注目して話を読む(宮沢賢治著『注文の多い料理店』)

 最近、食べ物や食について注目して話を読む、ということをしている。食べるのがすきだからである。昨日も『ソクラテスの妻』を食について注目していったり、『寺内貫太郎一家』であったり…。

 今日もまた書いていく。宮沢賢治の『注文の多い料理店』。話の内容は二人の若い紳士が山を歩いていたら、西洋レストランがあり、入ると、自分たちが食べられてしまいそうだ、と気づいた、というものである。戸に<すぐたべられます>と書いてあって、可能とも自分が食べられるともとれる、というところがいいと思った。なんの料理をされているのか、ということはあまりはっきりしないのだが、とがったものを置く、牛乳のクリームを塗る、頭に酢のようなにおいのする香水をふりかける、体中に塩をもみ込む、などをするように二人は指示される。

 自分たちが食べられる、とまではいかないが、自分たちが食べ物に支配される、ということはあるような気がする。映画は詳しくないのだが、チャップリンの『モダン・タイムス』では、食べもののマシーンが人間を支配しているようにみえる、というシーンがあったと思う。日常でも、パチパチキャンディというのか、パチパチする食べ物は、どうしようもないというか、口のなかがパチパチする音に支配されている感がある。

 『注文の多い料理店』では、食べる時は、いつも自分(人間)が主体である、というわけではない、ということがわかった。

 

 今回は特定の食べ物を見ていったわけではないので、書きづらかった。あいまいな感じになった。

 

今回読んだもの

宮沢賢治、『注文の多い料理店』、角川文庫、1991年(改版第52版)

注文の多い料理店 (角川文庫クラシックス)

注文の多い料理店 (角川文庫クラシックス)

 

 

参考

向田邦子著『寺内貫太郎一家』の食べ物について注目して書いた記事ー

kankeijowbone.hatenablog.com

 

佐藤愛子著『ソクラテスの妻』の食べ物について注目して書いた記事ー

kankeijowbone.hatenablog.com

主に食の描写に注目して、佐藤愛子著『ソクラテスの妻』を読む

 題名にあるソクラテスの妻とは調べると、クサンティッペのことのようだ。クサンティッペは知らなかったので調べた。以下引用。

クサンティッペ ソクラテスの妻。夫を理解せず常に夫をののしっていたといい、古来、悪妻とされる。 (コトバンク)

 

 前に、向田邦子の『寺内貫太郎一家』の食について注目して書いたー(おもに食について注目して、)向田邦子の『寺内貫太郎一家』を読む。今回も食べ物について注目していった。印象的な表現を紹介する。まずは本の内容と感想から。

 

本の内容

 お人好しで、金貸しをしており、文学かぶれの会を開くソクラテスにたいしての妻の不満が書いてある。

 

感想

 ソクラテスの妻の不満がいろいろと書いてあったが、コトバンクで調べて出てきた悪妻、というふうには思わなかった。ソクラテス(夫)が悪い、と思うところが多々あった。

 

食べ物(食)についての描写

 3つ紹介する。

 まずはソクラテスが文人かぶれの会に行っていて、帰りが遅い、というところ。文の一番初め。

 ゆうべもソクラテスの帰りは一時すぎでした。それで今日もわたしたちのお昼御飯と、ソクラテスの朝御飯とが一緒でした。 (p.7)

 ここでは、ソクラテスがいかに起きるのが遅いのかわかる。

 

 次にソクラテスの癖。ソクラテスは妻と喋っているときに「よしよし」と食べ物にするようだ。以下引用。

 ソクラテスは三杯目の紅茶を茶碗に注ぎ、一杯目のときから入れたままになっているレモンの薄切をスプーンで押し潰しながら、「よしよし」といいました。それがわたしとの会話を進めまいとするときの、いつもの彼の手なのです。(p.11)

 変わった癖だと思った。ほかにも、ソクラテスが詐欺にやられたシーンで「よしよし」をしている。以下も引用。

 「五万円の損なのよ。あなた!」 しかしソクラテスがわたしに向ってやっといった言葉は、「よしよし」の一言でした。見るとソクラテスは、わたしが興奮のあまり、ついヒーターの上から取るのを忘れた食パンの黒こげを、一生懸命バターナイフで削っているのです。(p.44,45)

 妻が食パンを焦がしているなか、ソクラテスは「よしよし」と言って、それを取ろうとしているのは落ち着いていると思った。

 

 三つめはソクラテスが文人かぶれの同人会をソクラテスの家で開いた後、それに参加していた女流作家の卵がもってきたシュークリームの箱を持って上ってきたところに対して。以下引用。

 わたしがシュークリームが好きなことを、何かのときにソクラテスが彼女に話したことがあるのだそうです。 「よく覚えていたもんだ」ソクラテスは言いました。 「ああ見えても、女らしい」ところがあるんだね

 ソクラテスは、全く何ごともなかったかのように、けろりとしていました。わたしの泣き腫らした顔にも、気がついていないようでした。彼はシュークリームの箱をあけ、わたしにさし出しました。いきなりわたしは立ち上り、寝ている太郎を飛びこえて窓の外へシュークリームの箱をほうり出しました。 (p.59)

 (太郎はソクラテスの妻の子)

 

 窓の外へシュークリームの箱をほうり出す、というところがインパクトが強かった。

 ここのまえで、妻は、同人会を家で開いたことにもいらいらしているのだが、ここで、ソクラテスが同人会に参加していた女流作家を褒めたので、さらにいらいらしたのだろう。

 

 『寺内貫太郎一家』では、貫太郎が暴力をしたので、お手伝いのミヨ子が少しの間だが、ごはんを食べない、ということをした。食べ物についての怒りの表現は、シュークリームの箱を投げる、ということもあれば、ごはんを食べない、ということもある。

 

参考としたもの

コトバンク、「クサンティッペ」

佐藤愛子、『ソクラテスの妻』、中公文庫、1991年(18版)

ソクラテスの妻 (P+D BOOKS)

ソクラテスの妻 (P+D BOOKS)

 

 

 

文にも書いたが『寺内貫太郎一家』でも食について、注目していった。以下の記事。

kankeijowbone.hatenablog.com


 

懶惰(新明解国語辞典第5版)

 きのうは「新解さん」(「新明解国語辞典」)について書いたので、今日は、「新明解国語辞典」(第5版)で印象にのこっている語をひとつ。あまり興味はないと思うが。

 「懶惰」、これを前までなぜか「らいだ」と読んでいた時期があって、そのとき、「新明解国語辞典」(第5版)をつかって調べたら、次のように出てきた。以下引用(らいだの後の①は本来は四角1であったが、スマホだと表示できないため①にした)。

らいだ①【〈懶惰】ーな 正音ランダの誤った類推に基づく語形。(p.1455)

  これを一年くらい前まで、意味だと思っていて、懶惰とは、この引用にある意味なのかと思っていた。それで、よくわからない意味だといふうにずっと思っており、度々「らいだ(懶惰)」のページを開き、よくわからない、なんだ「正音ランダ」とは…という感想を見るたびに思っていて、懶惰というのはずっと、この意味のような言葉かと思っていた。しかし、一年ほど前、ふとこの引用にある「ランダ」というところに、目が行き、これはもしかして、ランダと読むのか…と思い、ランダのところを調べた。以下引用(らいだの後の①は本来は四角1であったが、スマホだと表示できないため①にした)。

 らんだ①【<懶惰】ーな なまけて、仕事・勉強などをしないでいる様子。「ーな性格」(p.1461)

 これを見て、いままで「らいだ」と読んでいたのは、ほんとうは「らんだ」で、それが正音であって、辞書的に言うと、「らいだ」と読むのは誤った類推なのだ、ということがわかった。

 

 以上、かなりややこしい文章になってしまった。多分何を言っているのかわからないと思う。書いていても自分がおかしい、ということは気づいている。

 

参考としたもの

金田一京助著・山田忠雄、柴田武、酒井憲二、倉持保男、山田明雄編、『新明解国語辞典 第5版』、三省堂、2001年(第25刷)

 

新明解国語辞典 第5版

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