最近、食べ物や食について注目して話を読む、ということをしている。食べるのがすきだからである。昨日も『ソクラテスの妻』を食について注目していったり、『寺内貫太郎一家』であったり…。
今日もまた書いていく。宮沢賢治の『注文の多い料理店』。話の内容は二人の若い紳士が山を歩いていたら、西洋レストランがあり、入ると、自分たちが食べられてしまいそうだ、と気づいた、というものである。戸に<すぐたべられます>と書いてあって、可能とも自分が食べられるともとれる、というところがいいと思った。なんの料理をされているのか、ということはあまりはっきりしないのだが、とがったものを置く、牛乳のクリームを塗る、頭に酢のようなにおいのする香水をふりかける、体中に塩をもみ込む、などをするように二人は指示される。
自分たちが食べられる、とまではいかないが、自分たちが食べ物に支配される、ということはあるような気がする。映画は詳しくないのだが、チャップリンの『モダン・タイムス』では、食べもののマシーンが人間を支配しているようにみえる、というシーンがあったと思う。日常でも、パチパチキャンディというのか、パチパチする食べ物は、どうしようもないというか、口のなかがパチパチする音に支配されている感がある。
『注文の多い料理店』では、食べる時は、いつも自分(人間)が主体である、というわけではない、ということがわかった。
今回は特定の食べ物を見ていったわけではないので、書きづらかった。あいまいな感じになった。
今回読んだもの
宮沢賢治、『注文の多い料理店』、角川文庫、1991年(改版第52版)
参考
向田邦子著『寺内貫太郎一家』の食べ物について注目して書いた記事ー
佐藤愛子著『ソクラテスの妻』の食べ物について注目して書いた記事ー