寺山修司著『さかさま博物誌 青蛾館』を読む

 寺山修司の『さかさま博物誌 青蛾館』を読んだ。250ページ程あり、ほとんどが2,3ページのエッセイで構成されている。あまり、特定のものに絞って書いているというわけではない。寺山修司の考えは面白いと思っている。本当のことを言っているのか、と思う事はあるけれども。どこからとってきたのかわからないところがおもしろい。それがずっと続いていて、いろいろなことを知っているのだ、と思う。印象にのこったところなどを紹介する。

 

 まず、この前読んだ赤瀬川のハイレッド・センターの記録でも出てきた高松次郎(ハイレッド・センターのハイ(高)にあたる人)について述べられてあったところ。寺山修司は自身の影を集めているようで、月の光や電燈のあかりで影ができると、そこに黒い羅紗紙を敷き、影の形を切りとり保存している。(p.14) 次のページで高松次郎の影シリーズにふれている。高松は人のいない壁やパーティの終わったロビーにある日ある一日にうつっていた影だけを描述し、本人がいない壁に影だけが残っているという非在の記録を通して人間に時の意味を問いかける。(p.15) また、フレドリック・ブラウンの小説には本体が影で、影こそ本体であり、影をピストルで撃ったら死んでしまった、という話もある。(p.15) 星新一の作品には「バーであった男」という話があって、バーにいる男が話してくれる。その男は車を運転しているときに、白い服を着ている人影があって、こちらをみてくる、と思ったとたんに消える、という体験をしていた。で、こちらをみてわらって、消えてしまうので馬鹿にしているのか、と思い、車の速度を上げたら、感触があった。その話は広がって、その出来事が起きた場所にひとびとは集まり…、。影について書いてあったので、そんな話を思い出した。影響というのは、どうして影が使われているのか、ということは疑問に思っている、語源が知りたい。影絵ももっと注目してみたいと思った。影はなんでできるのか、というのはずっと不思議に思っている。影は表情が少ない、と思うが、意外と、細かい。大きさはあまり表現してくれないが。

 

 次に印象にのこったところが寺山修司は机を持っていない、というところだ。寺山は原稿用紙と二、三本の鉛筆、読みかけの本をもって、周辺の喫茶店を転々と歩くのが道楽である。(p.15) 机がない、といっても、机にこだわりがないというわけではなくて、いろいろとあるようだ。以下引用。

 長いまとまった論文を書くときは、近くの小さな喫茶店の木製の卓を使う。[...]競馬に関するエッセイなどを書くときは、そこの二、三軒さきの中華料理屋のカウンターか、いつも古賀メロディーをかけている酒場のデコラ貼りの机が向いているように思われる。 フルーツパーラーのガラスのテーブルは、映画の感想などを書くのに向いているし、膝の上にのせた旅行鞄の横腹は、短歌を書くための机に早がわりする。『人生いたるところに机あり』なのである。(p.26)

 寺山は劇場だけで、劇をやっていていいのか、日常でも劇は起こるのではないか、ということを言っていたと思うが、そういうことなのか。いわれてみれば、寺山修司が自宅らしい机に座っている画像は見たことがない気がする。引用の最後にある旅行鞄の横腹で短歌を書く、というところがいいと思った。

 

 それから以下のような言葉も印象にのこった。これは寺山の友人が言っていたのだという。

[...]すると友人が言った。『見るという行為は、人間を部分的存在にしてしまう。もし、世界の全体を見ようとしたら目を閉じなければ駄目だ』と。(p.43)

 

読んだもの

寺山修司、『さかさま博物誌 青蛾館』、角川文庫、1980年(初版)

 

参考

星新一、「バーであった男」(『ご依頼の件』に収録されている)、新潮文庫、1991年(8刷)