(おもに食について注目して、)向田邦子の『寺内貫太郎一家』を読む

はじめに

 前に書いた記事でも紹介したのだが——(興味があれば久世光彦著『触れもせで——向田邦子との二十年——』を読むを参照していただきたい。)向田邦子は、食卓の情景と言うのはその家族の縮図だと思う(向田邦子、1990年、p.282)、ということや、「ホームドラマを考えたときに、その家族が何を食べて、夜に何を食べるのかの献立が作れるときには、そのドラマはうまくいきますね。[…]」(向田邦子、1990年、p.204)と言っていたり、たくあんを噛む音も含め、皿小鉢の触れ合う音や、コップの音、咳払いなど、そういうサウンドが入る方がいきいきとしていていい、ということを言っている(向田邦子、1990年、p.200)。

 今回は、とくに、向田邦子の『寺内貫太郎』のなかの、食についてのシーンに注目していった。食についてのシーンはかなり多かった。その食のシーンが、登場人物の性格を表す、ということもあった。

 食についてのシーンに注目する前に、『寺内貫太郎一家』の内容、登場人物を大雑把に紹介する。題名にある、寺内貫太郎というのは、50歳で、東京谷中にある「寺内石材店」通称「石貫」という石屋の主人をしている。寺内貫太郎は基本的に怒りっぽくて、すぐ、暴力をふるう、という昔ながらの(といってもこれは偏見であって、そうでないことももちろんある)テレビドラマに出てくるような人物である、が、どこか、優しいところもある。題名にもあるように、寺内貫太郎の一家で起きた、さまざまなことが書かれている——恋愛について、受験について、女中について、…。

 

 登場人物はいろいろおり、さまざま書いてあるのだが、かいつまんで紹介する。

 先ほどもふれたが、まずは寺内貫太郎から、

寺内貫太郎…谷中にある「石貫」の主人、正式には三代目寺内貫太郎、50歳、巨体、西郷隆盛のよう、口下手で怒りっぽい、テレ屋、不作法が嫌い(p.9-11)(※引用は『寺内貫太郎』からが多いため、『寺内貫太郎』からの引用はページ数のみを書く)。

寺内里子…貫太郎の妻で4歳年下(p11)。

寺内静江…長女で23歳、足が不自由なところがある、上条という32歳の、妻と離別した男(子持ちで子供は4歳、マモルという)に恋をしている(p.13,14)。

寺内周平…貫太郎の長男、大学受験に臨む(p.14)。

寺内きん…明治37年、新潟生まれ、三代目寺内貫太郎の母親、「石貫」の女中、趣味はいたずらといやがらせで、貫太郎をからかい、お手伝いをいじめる、食事時は汚い、沢田研二のファンで、ポスターの前で一日一度は「ジュリー」と叫ぶ。(p.15,16)。

相馬ミヨ子…17歳、寺内きんと同郷で新潟生まれ、幼い頃父を亡くし、。高校卒業直前に母も病死、寺内家の手伝いとしてやってきた(p.16,17)。

直子…貫太郎の遠縁。住まいは足利だが、夫と仲が悪く急遽寺内家に来て、泊っている。

 

食について注目する 

以下、食について注目していった。

 

・貫太郎はよく食べる(巨体)

 貫太郎の食べ方はよく食べる、「貫太郎が物を食べるところは、ちょっとした「見もの」である。「大茶碗をしっかと抱えこみ、物凄い勢いで、メシをかきこみ、ズズズとおみおつけを啜る。」(p.22) ここでは、いっぱい食べる、ということから貫太郎が巨体である、というイメージが伝わってくるのではないだろうか。また、静江の相手、上条に貫太郎がぶたれ、そこでは四つ目の饅頭に手を出している、気持ちがたかぶった時、貫太郎はひどく大食いになる(p.260)、という場面があるのだが、貫太郎の性格である言葉では言い表せないから、大食いへ走るという手段につながっているように思える。

 

・きんの食べ方・食について

(汚さ、不器用さ)

 貫太郎の母、きんは食べ方が汚い。例えば、23ページにはきんが、上で紹介した貫太郎の食べ方が見ものである、ということと似ていて、きんの食べ方もまた、壮観で、賑やかである、ということが書いてある、口の中にご飯粒をいっぱいにほおばって、「グフッ!」とくしゃみをする、ということも述べられている、それに対し、貫太郎の長男である周平は「きったねえなあ、もう」と言って退避する。きんはいたずら好きであるのだが、このシーンでは、食べるのが汚い、という一種不器用な面も伝わってくるのではないか、と思う。また、汚さを表すシーンとして、ネズミが貫太郎の家に出て、それを見てきんがきたないことを言い、また周平に言われる(p87-89)、というところもある。

(ひとり意地悪な感じ)

 貫太郎家の長女である静江の恋の相手、上条は子持ちなのだが、それを知った貫太郎が怒る、という場面があって、そのあとにきんが食べ物を食べる場面がある。上条、息子のマモルを送るシーンである、以下に引用する。「[…]貫太郎[…]うなるように言った。「バイバイ」里子と静江が玄関に送ったが、貫太郎は行かなかった。スーと入ってきたきんが、誰も手をつけなかった最中をつまみ食いしながら、楽しそうに呟いた。「さあ、これからが大変だ……」」(p.33,34)

 最中と言うものは、誰も手をつけなかった、というから、誰も考えていない問題を考えている、といった印象をもった。たしかに、最中というものは、チョコ、おせんべいなどを手軽とするならば、それに比べ、食べにくい印象を受ける。また、その後に続くつぶやきが楽しそう、とあるから、きんの性格であるいたずらが趣味である、ということと似たようなものを感じた、また、嫌な出来事が起こることにわくわくして、起こってほしくて、どこか意地悪な感じも伝わるのではないだろうか。

(慣れた感じ)

 他にも、慣れた感じがするという場面があった。それは直子という、ふつうは居ない直子という人物が、いるシーンがあるのだが、前に、きんが「うちではプロレスが見れる」、ということをいった上で、貫太郎家では家族間の喧嘩が起きている(ここの内容はだいぶ込み入っているので、省略する)。直子は心配するのだが、落ち着いている。そこの引用をする。「「やめて、周平さん。里子さん、とめて下さいよ。ねえ、おばあちゃん」「大丈夫よ、直子さん。これがさっき言ったうちのプロレス」きんは澄まして苺を食べている。直子と、静江に押さえられながら、[…]」(p.253,254) ここにある、すまして苺を食べている、というところが慣れている感じがあると思った。

(わずらわしさ)

 きんが熱海に行って、居ない、というシーンがある。そこでは、茶の間からは牛肉のオイル焼きの匂いがする。というのも、きんはすき焼きがすきであるからである、静江は「おばあちゃんがいると、こうはゆかないわね」と言う。(p.187,188)

 ここはきんのわずらわしさが表れている、と思った。

(寒いということ、温かいとの対比)

 きんは、旅行に行ってたのだが、予定より早く、家に戻ってきた、というシーンがある。きんがいない間、寺内家は、きんの部屋の掃除をしようとしており、部屋の状態はむき出しであったり、骨だけであったり、開け放たれていたりする。(p.192-196) そこでは以下のように書いてある。引用する。「夕食も食べず、骨だらけの障子に囲まれて、きんは寒々とした隠居所で眠った。ただし、夜中にインスタント・ラーメンを二個召し上がった。」(p.196) ここでは、寒々とした隠居所と、インスタント・ラーメンの温かさが対比されている。

 

・キャラメル(周平の里子へのやさしさ)

 前の文でも若干ふれたが、静江は上条に恋をしている。そして、それに対して貫太郎はよく思っておらず、静江を殴る、という場面があって、貫太郎の妻、里子も静江の味方をし、貫太郎と口論するところがあり、そのあとで、周平は里子へポケットから出したキャラメルを皮からむいて、里子の口へ入れ、里子は洗い物をする、というシーンがある(p.36-40)。ここでは、周平が、口論した後に母へ気遣いとして食べ物をあげる、また、キャラメルという、洗い物しながらできる食べ物を母親の口元へ運んだ、ということに優しさを感じた。

 

 ・カレーについて

 周平は受験に失敗してしまった、まえから周平は受かっていたら、鯛と刺身と蛤の祝い善にしよう、と言う話はあったのだが、落第、ということでカレーになった、カレーのにおいが漂う、というシーンがある(p.59)。個人的には、カレーというものは、作り置きもできるため、みんなで食べるもの、というイメージがある。

 ここでは、カレーはあんまりよくないものとされている(p.61)。カレーは好き嫌いや、個人の思い出がそれぞれ詰まっているものだと思う。

 

・沢庵(縁起のよさ)

 貫太郎家の食事が賑やかである、ということを表すところで、家族が沢庵について話している。三切れは「身を斬る」といって、縁起が悪い、また、一切れは「人を斬る」といって、よくはない、ということを話し合っている。(p.66)

 

・周平が油物が嫌い、油のイメージ

 周平は油を食べると眠くなる、といって、食べたくない、ということを言っている。それに対し、貫太郎は文句を言うな、ということを言う。このあと、周平は貫太郎は、「自分だって文句言うじゃないか」ということを貫太郎に言い、二人の喧嘩が始まる。貫太郎は周平を殴りかかる、里子は周平をかばう。が、貫太郎は、里子をぶち、ミヨ子は、貫太郎に食らい的つき、ミヨ子も貫太郎に飛ばされ…というシーンがある。 (p.120-123)

 ここでは最初、周平が油に文句を言っており、そこからさまざまな喧嘩に発展した。無理やりではあるが、「油を注ぐ」という意味とも掛かっている気がした。

 

・ミヨ子、「ごはん、食べません」

 上では油というものが、喧嘩を引き起こす起点になっている、ということを紹介した。それで、ミヨ子が貫太郎に食らいつき…ということも書いていった。ミヨ子はその後、貫太郎が里子に謝ってくれない、ということもあり「ごはん、食べません」ということを言っている。ハンストをしている。(p.123)今までは、食べるということに注目してきたが、反対に食べない、ということもある。食べるものが多いゆえに、食べない、ということが際立っているのだと思う。

 

・ミヨ子はご飯を食べるのかどうか(その1)

 上では、ミヨ子は、貫太郎が里子に怒ったため、ハンストを起こしている。そのあとは、ミヨ子に注目していった、文がいくつかある。まず、貫太郎が「まあ、おなかがへりゃ食べにくるさ」ということを言う、しかし、食べようとはしない、が、ミヨ子は「あたし、ごはんは食べないけど、いつも通り、ちゃんと働きますから」ということを言う(p.124,125)。ここでは、食べるさ、と貫太郎が予測しておくことで、ミヨ子が食べようとはしない、ということをより一層強調させているように思う。

 128ページではミヨ子はきんの肩を叩きながら、台所から流れてくるフライの匂いを、嗅ぐまいとしてギュッと目を閉じている。フライの匂い、というものは、個人的に、食欲を強烈にかきたてる、というイメージがある。

 

・きんの五十年前の話

 上では、ミヨ子がきんの肩を叩きながら、台所から流れてくるフライの匂いがしてきた、ということを書いていった。ミヨ子は肩を叩き終わり、出ていこうとする。そこで、きんは自身の五十年前のエピソードをする。そこではきんは、むかし、女中に来たときの晩のおかずがとろろであったのだが、とろろは大嫌いだった、しかし言えなくて「大好きです」といって、寒い台所で目をつぶって飲み込んだ、女中というものはつらいと思った、ということが書かれている。(p.129) ここで言われている好きである、嫌いである、いずれにしても、食べなければならない、というエピソードは、我慢を表すということ、また、ここで言われているつらさを表すものであると思った。

 

ミヨ子はご飯を食べるのかどうか(その2)(p.130-135)

 上に書いた、<ミヨ子はご飯を食べるのかどうか(その1)>では、ミヨ子はご飯を食べようとしなかった。さらに、ご飯を食べるのかどうか、ということは続けて書いてある。130ページでは、ミヨ子はいつものように食卓に坐り、キビキビとごはんをよそう。ここでは貫太郎家は、ミヨ子がハンストを起こしていた、ということを見ていたため、ミヨ子の好きな、エビフライを用意してあげる、「さあ、みよちゃんの好きなエビフライよ」、ここでは上の<きんの五十年前の話>というところで書いた、きんが、とろろが嫌いであった、ということが効いてきているように感じる。

 しかし、ミヨ子は好きなものを出されても食べようとせずにいる。貫太郎はそのあと、腹が減っているミヨ子を見かね、アンパンを二つ三つ飛ばした。ここの飛ばした、ということがぞんざいな感じがした。そして、しばらく、やりとりがあって、ミヨ子は目を白黒させながら、あんパンを食べ始める。ミヨ子は涙をこぼす。 

 

・マモルと食

上条の息子、マモルもご飯を食べる。以下、マモルの食について、いくつか注目する。

(物怖じしない)

 マモルは、朝食をよばれることになり、大きな客用の茶碗を抱えて、物怖じするふうもなく、ごはんを食べる(p.148)。そこは、親の上条にも似ているところである、という(p.151)。

(ケーキを食べる、障子の穴)

 上ではマモルが物怖じしない、といういことを書いていった。物怖じしない、ということは一種、一歩間違えれば失礼にもなる、ということはあると思う。マモルはケーキを茶の間で、ひとり食べ、ベタベタになった手を障子で拭いたら指を突っ込んで穴をあけてしまった。(p.150) その後の対応としてふつう考えられるものは怒る、ということではないだろうか。が、貫太郎は怒らず、マモルのしたように障子に穴をあけ、さらに里子が来て、障子、どうしたの?ということを聞いてくる。が、貫太郎は、「破いたのはオレだ。」ということを言って、マモルをかばう。(p.150-152) ここでは貫太郎のやさしさが表れているのではないか、と思う。 ケーキを食べた、ということが起点となって、障子を破り…貫太郎のやさしさが表れているという流れがあった。

 

・静かさと煎餅を食べる、ということ

 貫太郎がいない、と言うシーンがあるのだが、貫太郎家は静かである、という描写がある。そこでは周平が煎餅を食べている。その音は貫太郎家では一番大きい(p.161)。ここでは、静かさと煎餅のうるささが対比されている。

 

・貫太郎のやさしさ

 上のマモルがケーキを食べ、障子に穴を開けたところで、貫太郎も一緒になって穴を開け、貫太郎が破いた、と言った、というところでは貫太郎のやさしさが表れている、ということを書いた。ほかにも、貫太郎のやさしさを感じたところはある。それは、173ページの貫太郎の歯が痛んでおり、その前で静江が煎餅を食べているところである。貫太郎は静江に、「歯の痛い人間がいるってのに、ボリボリ煎餅を食う奴があるか!」と、静江に怒鳴る。そのあと、静江は、煎餅を置くのだが、貫太郎は「さっさと食え!」ということを言う、それで静江は煎餅を食べるのだが、音をたてないように、煎餅をなめ崩す、そこでは貫太郎は「なにモタモタ食ってるんだ!」ということを言う。ここでは貫太郎のやさしさを感じた(といってもそれは貫太郎のもともとの厳しさがあっての上である)。

 

 

まとめ

 以上、食について注目して書いていった。

 「みんなで揃って、食べましょう」という感じではない場面が多く、どちらかというと、みんなが揃っているわけではないところで食べている、という印象をもった。テレビドラマでも『寺内貫太郎』はあるのだが、見ていない。テレビドラマだったら、もう少し、みんなが集まって食べる、ということをするのかもしれない。

 向田邦子の対談の本(1990年)では、向田邦子が台本では、この家だったら何を食べるかということを考えて、自分でメニューを書いた、ということが書かれている(p.282,283)。前も紹介したが、『寺内貫太郎』のドラマでは消え物(劇中の食べ物のことを言う)の係が,献立を明細に指示してほしい、というようになり、向田邦子は翌週からそのシーンを最初のト書きに、<寺内貫太郎一家・今朝の献立>と銘打って、書いていった(久世光彦、1992年、p.77-80)、ということが述べられている。献立を書くくらいだから、バリエーションは多くつくれるのではないか、と思う。今回は、かぎられたものしか食についてみてきてはいないが、ほかにも多くの食についてのシーンがあるのだと思う。

 ほかの作品でも食について、注目するところがあれば、見ていきたい。

 

 参考としたもの

・前に自分が書いた記事(久世光彦著『触れもせで——向田邦子との二十年——』を読む)

・向田邦子、『向田邦子全対談』、文春文庫、1990年(第5刷)

・向田邦子、『寺内貫太郎一家』、新潮文庫、1998年(15刷)

・久世光彦、『触れもせで——向田邦子との二十年——』、講談社、1992年(第4刷)

※今回は『寺内貫太郎一家』からの引用が多かったため、『寺内貫太郎一家』からの引用は、何年版のものであるか、ということは省略し、ページ数のみを文には書いた。

 

寺内貫太郎一家 (新潮文庫)

寺内貫太郎一家 (新潮文庫)