永野について

 前にとんねるずの買うシリーズで永野が出てきて衝撃を受けた。「ゴッホより普通にラッセンが好き」、そもそもラッセンを知らなかったのだが、永野でラッセンを知った。

 

 服の色、よくわからない歌、最初に沈んでるところ、髪をクイっとするとこ、誰に手を振ってるのかわからないこと、ラッセンという語の響きの良さ、…どれをとってもすごいと思った。よく言う、「中毒性が高い」芸人。

 

 

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左:永野の色 真ん中:永野 右:永野の構え

 

 

永野色

 ブログの編集ボタンは永野の色を目指した。編集ボタンはマウスを動かして矢印がタイトルの上を通り過ぎると出てくるボタンである。以下画像とそのcss。文字色が#0FF(水色)で背景は#F00(赤)。

f:id:kankeijowbone:20190705200803p:plain

編集ボタンは永野色を目指した。 (パソコンの場合)



 

/* 「編集する」ボタン */

.entry-header-menu {

  position: absolute;

  bottom: 0px;

  left: -60px;

}

.entry-header-menu a {

  display: inline-block;

  *display: inline;

  *zoom: 1;

  padding: 4px 10px 4px;

  margin-bottom: 0;

  line-height: 18px;

  color: #0FF;

  background-color: #F00;

  text-align: center;

  vertical-align: middle;

  border-top-right-radius: 2px;

  border-bottom-right-radius: 0;

  border-bottom-left-radius: 0;

  border-top-left-radius: 0;

  border-radius: 2px;

  background-clip: padding-box;

  cursor: pointer;

  font-size: 12px;

  text-decoration: none;

  font-weight: 600;

  border: 1px solid rgba(0, 0, 0, 0.2);

  text-decoration: none ;

}

 

 

 

 

 

 通知ボタンも永野っぽい色にしたいが、これは出来ないのだろうか…。下がカスタマイズしたいイメージ。 

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左:永野色 右:永野の構えっぽい

 

 永野色を発見するとテンションが上がる。街中でも永野っぽい色を見つけたら(永野っぽいな)とひとりつぶやくことにしている。しかし、その永野色は中々見当たらない。絵画でも探すのだが発見できてない。決定的な永野色を発見したときは紹介したい。

俵万智の『サラダ記念日』を読んだ感想・記念日について

<はじめに>

 俵万智さんの『サラダ記念日』(河出文庫)を読んだ。『サラダ記念日』を読んだ感想を前半で、後半は記念日について思ったことなどを書いていきたい。

 

いいとおもった文

 いくつかいいと思った文を挙げる。

・皮ジャンにバイクの君を騎士として迎えるために夕焼けろ空 (「野球ゲーム」、29p)

 

・今日風呂が休みだったというようなことを話していたい毎日 (「野球ゲーム」、39p)

 

・あなたにはあなたの土曜があるものね 見て見ぬふりの我の土曜日 (「風になる」、53p)

 

・夕焼けてゆく速度にてコロッケが肉屋の奥で揚がり始める (「たそがれ横丁」、130p)

 

723から724に変わるデジタルの時計見ながら快速を待つ (「元気でね」、157p)

 

 五つあるのでそれぞれどこがいいと思ったかを書いていく。

・空に「夕焼けろ」と言っているのが壮大なところ。

 

・風呂屋はのほほんとしている。

 

・相手の土曜を尊重しながら、自分の土曜の存在もあるということをいっているところ。

 

・夕焼けと奥の肉屋という組み合わせ。夕焼けの速度がわからない、それゆえコロッケの揚がる速度もわからない、そのためか、わくわくする。

 

・デジタル時計の表示を見て、文字をつけたくなることもあるため。

 

『サラダ記念日』を読んだ全体的な感想

 基本、右に三文、左に三文載っていた、三文ともスペースをとっていた。話はつながっているのだろうと、なんとなくわかるが、独立した文のような気もした、一文一文個々のもの。独立した文で読むのは勝手だろうか…しかしそう読めると、何気なくページを開いて読めるのでいいと思った。けれども内容が頭に入って来たとは言えない、が、そういうのもいいと思った。

 

「サラダ記念日」・記念日は作れる

 「「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日 (「サラダ記念日」、127p)」

 なにをもって記念日とするかだけど、『サラダ記念日』にあったように記念日と言うのは作れると思う。はじめて何かをした記念日であったり、何かを達成した日であったり…。

 

タモリの講演大王と感想

 記念日に関連してひとつ…

 1992年から「講演大王!」という番組があったようだ、動画でも残っていてそれを見た。タモリは「わたしが各種行事に反対している理由とソ連邦崩壊の関連性」という題名で講演をしていて、そこでは次のようなことを言っている。——

 人は所属や時間などのつながりをもって、生きている。行事もそのつながりをもたせる一つである。国と言うのはそのつながりの最たるものである、ソ連は崩れるとは思っていなかった、が、崩れてしまい、ソ連の官僚には職を失っている人もいる、18-22歳くらいでは柵(行事やイベント、他との関係)を考える必要はない、柵をもたないべきだ、しかし、社会的なつながりを求めていっていいのだろうか…。

 

 そんなことを言っている。

 「職を持っているから、やがてくずれていくのだろうか」という疑問はある。けれども講演だから手短にという性質もあるのだろう、言っていることはなんとなくはわかった。

 

記念日の重要性

 先ほど記念日は作れるといった、「サラダ記念日」のように味がいいといえば、記念日になりうる、ほかにも、なにか達成したことがあればそれを記念日と名付けていいように思う。しかし、重要性や規模はそれぞれ当然違う。自らがつくった記念日というものと、社会的な記念日とでは規模が全然違うだろう。また、記念日が多すぎれば嫌だということもある。

 

記念日について

 タモリは先に紹介した動画では主にバレンタインデーやホワイトデー、クリスマスイブなどに反対していた。

 自分も、たしかに行事というものは、参加したくないときがある。とくにがやがやしているものであったり、きつきつな行事は。

 が、一方で、行事(記念日)がなければ、なにもしないような、むしろ行事があってよかったと思うものもある。例えば父の日や母の日、年齢が上がるにつれ、ますます親との距離は遠ざかっているような。これがなかったら、いろいろ伝えづらいというか、それをもし伝えたくて、「サラダ記念日」のように個人的に作っていかなければならないとしたら、億劫になるだろうと思う時もある。そういった意味では行事(記念日)に賛成することもある。

 

 賛成するといったって、年齢や時代と共に変わるだろうし、今はいいと思っている行事が嫌になることもあるかも知れない。

 

おわりに

 前半ではおもに「サラダ記念日」のよかったと思った点を挙げた。なにか癖になるような、表現もあった。後半では記念日について書いていった。「サラダ記念日」を読んで「サラダ記念日」のように個人的につくれる記念日というのがあるとわかった。反対に社会的な記念日もある、その一つが行事だと思う。「講演大王!」でのタモリの講演のように、社会的な記念日は反対されることもある。しかし、一方で、もし社会的な行事がないのなら、「サラダ記念日」のような個人的な記念日を作っていくのも億劫だと思うこともあるだろうと思った、そのような点では社会的な行事(記念日)に賛成することもある、しかしそれも年齢によって変わると思う、と書いた。

 

参考

文に出てきたもの…

・俵万智、「サラダ記念日」、河出文庫、1997年

・「タモリ 講演大王 1/2」、「タモリ 講演大王 2/2」 (YouTubeより)

 

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

サラダ記念日 (河出文庫―BUNGEI Collection)

 

 

真鍋博について・真鍋博の「思考の憶え描き」を読む

真鍋 博(まなべ ひろし、1932年7月3日 - 2000年10月31日)は、愛媛県新居浜市出身のイラストレーター、アニメーター、エッセイスト。日本SF作家クラブ会員。 (Wikipediaより)

読んだもの… 真鍋博、「思考の憶え描き」、早川書房、1976年  

 

<はじめに>

 真鍋博は、星新一や筒井康隆の本の表紙や挿絵を書いてきた人物である。今回は、昨日読んだ少年マガジンについての本に出てきたため、この本を手にした、また、前々から星新一の、とくに表紙は気になっていた、無機質だが見たら星新一の本だとわかるような…どんな方が書いているんだろうと思っていた。

 

 星新一の本、「これからの出来事」の解説にも真鍋博は登場した。『これからの出来事』で真鍋博は星新一の作品のさしえを描いたのは昭和33年、「おーい でてこーい」が初めてである、ということを言っている、星新一は締め切りを守るようで、予定より二、三日も早く原稿が来るので他の作家に比べ、さしえを描く時間が十分にある、ということなども書いてある。

 (星新一著『これからの出来事』、<解説>を参照した)。

 

 内容と印象深かったもの

 この本は絵がメイン。いろいろな計画が書いてある。が、あまり理解できるわけではなかった。しかし絵がこれでもか、というくらい描いてあって、その絵一つ一つに圧倒された。いろいろな計画と言っても、それは、「何でそんな発想に…」というような計画だった、例えば罐詰計画、玉ねぎからヒントを得た多層罐詰計画は…と言う文だったり光を罐詰にすることは…と言う文があったりする、多分何を言っているのか伝わっていないと思う。

 

特によかったとおもったのは以下のようなもの。例えば「窓計画」。

窓計画

 壁に穴をあければ、それが窓になる。また空間を壁で覆えばその隙間が窓になる。遮断された二つの空間をわずかに結ぶもの、それが窓である。 (24-25p)

また、羽目絵計画。 

 羽目絵計画

 ある部分だけが空白な風景、あるいはある部分しか見えない不確かな風景。そのどちらも思考の遊戯として魅力的である。つながっているはずの風景さえひょっとしたらまったく別々のものが偶然にもつながって、そう見えているのかもしれない——。 (200-201p)

 

いずれも発想がおもしろいとおもった。

 

 計画と言って、あらかじめ今から予想できることだけでは面白みに欠けることもある。そういう意味では、この本の計画はそうではなくて、奇想天外な計画もある、しかしそれを綿密な絵にしている、すごいと思う。

 

 今回は本にあった絵を載せていないので文だけで紹介した、わかりにくかったかもしれない。かなり抽象的になってしまっただろうか。

 

参考

今回読んだもの… 

・真鍋博、「思考の憶え描き」、早川書房、1976年

 

参照したもの…

・星新一、「これからの出来事」、新潮文庫、1993年

 

(下のAmazonの本の装幀は真鍋博が担当した。)

これからの出来事 (新潮文庫)

これからの出来事 (新潮文庫)

 

「少年マガジンの黄金時代~特集・記事と大伴昌司の世界~」を読んで特に気になった記事5選ほか

今回読んだもの…「少年マガジンの黄金時代~特集・記事と大伴昌司の世界~」、講談社、2008年

 

<はじめに> 

 昭和41年、「ウルトラQ」や「ウルトラマン」がtbsで放映開始される前に、「週刊少年マガジン」で、特集を組んだ。その記事を担当したのが編集者の大伴昌司である。

 「週刊少年マガジン」が創刊されたのは昭和34年3月17日である。この年、フジテレビが放送を開始したり、皇太子仁親王と正田美智子さんがご成婚されたり、「週刊少年サンデー」、「週刊文春」などが相次いで創刊した。 (35-37pを参照した。)

 

 この本では「週刊少年マガジン」の創刊した時期からの記事や大伴昌司の担当した記事や図解などが主にモノクロで載っている(カラー写真も一部ある)。

 今回は、大伴昌司の記事を紹介するというわけではない。大伴昌司が担当する以前の記事も含め、とくに気になったものなどを紹介したい。

 

1. 背番号について

 ☆背番号をつける六大学 (昭和34年1号(3月26日)創刊号)

 東京六大学野球春のリーグ戦は、四月上旬に開幕されるが、ことしから選手に背番号をつけることになった。その背番号については、前々から、「つけろ、つけろ。」といわれていたのを、連盟のえらい人たちが、「プロとちがうのだから必要ない。」といって、がんとして聞き入れようしなかったもの。しかし、とうとう(…) 

(42p)

  六大学野球では背番号はこのときまで、付けていなかったのを知らなかったため、そうなんだと思った、節約という意味でつけなかったのもあるのだろうか。連盟のえらい人の反応が面白い。

 

2.アメリカのテレビと日本のテレビ

 アメリカ少年の願い (昭和34年1号(3月26日)創刊号)

 アメリカの中学生や高校生の間では、9インチという、日本ではまだ売っていない小さなテレビを、(…)

(44p)

  このあとの文で、一年貯めればアメリカの学生アルバイターでもこの9インチの小型テレビが買える、と続く。当時、日本には9インチのテレビが売っていなかったことは初めて知った。けれども「小さい」とあるから、それほどテレビが大きかったということなのだろうか…。

 

3.日本の秘宝一覧表 (108-109p)

 <編集部で集めた日本の秘宝一覧表>(昭和41年30号(7月31日))という記事があって、興味深いと思った、例えば<ゆうれい屋敷の財宝(東京都荒川区)>、<だらだら長者の財宝(東京都新宿区)>、<中尊寺の金のとり(岩手県平泉)>…。

こういう記事もあるんだなと思った。

 

4.アポロ11号の月面着陸の記事(昭和44年30号(7月30日)) (111-113p)

 アポロ11号の月面着陸は昭和44年7月21日にあったようだ。この記事の日付は7月30日、となっているが、<人類が月面に着陸する7月21日午後3時17分に注目しよう。>というフレーズが載っていた。ということは、7月30日とあるが、実際には7月21日の月面着陸前に店頭に雑誌はおかれていたということだろうか…これは今でもあることだと思う、要はズレ。また、月面着陸の予定も詳細に書かれていた。いずれもみれてよかった。

 

 月面に降りたからと言って、いきなり月面に飛び出すわけにはいかない、ということが書かれていてためになった。以下その箇所を引用。

(…) しかし、月面におりたからといって、「それっ、月におりたぞ、ばんざい!」と、いきなり月面に飛び出すわけにはいかない。

 再び地球へ戻るため、機械や装置の点検整備、月面作業にそなえての準備、飛行士の食事と睡眠に、9時間39分もの時間をかける。 (112p)

 宇宙空間での睡眠時間は地球のと、どのくらい違うのかなど、気になった。

 

5.中元さん(昭和40年31号(7月25日)) (143p)

 これはギャク。お中元の季節に少年が〔中元〕と書いてある品物をもって、<中元>という表札の家にもっていこうとしたら、<中元>という人が怒鳴っている様子が書かれている記事。こういうのもあるんだと思った。

   

全体的な感想

 大伴昌司は、エッシャーやマグリットの絵の記事も掲載した。この本にも、大伴昌司の紹介したエッシャーの記事の扉絵は載っていた。エッシャーの扉絵のところの解説が、星新一の挿絵の人、真鍋博で興味深かった。

 マグリットのものもできたら見たかった。

 いろいろと昔の記事を見れて楽しめた。また、大伴昌司の「怪獣の解剖図」も載っていて、見れてよかった。

 

 参考

少年マガジンの黄金時代 ~特集・記事と大伴昌司の世界~

少年マガジンの黄金時代 ~特集・記事と大伴昌司の世界~

 

「らしさ」について

<はじめに>

 「らしい」、「らしくない」、「らしさ」というのは様々な時に使われる。

 「らしさ」というのは何か固まった、型がある、というイメージをもっている。それは、いい意味でつかわれる時もあると思う。「○○さんらしさがあるね」、こういった場合は言われて嬉しいのではないだろうか、独特と言う意味で(が、それも言われ続けたり、皮肉を込めて言われていたりした場合嫌だが)。反対に、そのらしさがすごく限られたものだと嫌になる時もある、「○○さんらしくない」と言われる、またはなにか作品を作っているときに、手本となる人物がいて「○○さんらしくつくらなければ…」と思う事は、大変なのかも知れない。

 メディアでよくいわれる「らしさ」というのは批判的なものが多いような気がする、「なんで○○らしくしなきゃならないのか…」

 人に言うわけではないときの「らしさ」というのはもっと軽く使えるだろうか、「明日の天気は雨らしい」、「中止らしい」、「あほらしい」、「馬鹿らしい」…、

 人にたいして使う言葉と言うのは、よく考えて言わなければ、受け手の様々な解釈によって問題を引き起こすことがある、「らしい」もその一つだと思う。今回は「らしさ」についてみていきたい。

 

 

寺山修司の「らしさ」

 以下は寺山修司の「さかさま恋愛講座 青女編」の第八章、<——らしさ>を参照した。

 寺山修司は、子供がお酒を飲んでいけない、あるいは喫煙してはいけない理由の一つとして、飲んだら、喫煙したら子供らしくないから、というのがあるとする、例え飲んだり、喫ったりしても、それがドクターストップをかけられるほどの害はないにしても、つまり子供らしさと言うのは大人が作った子供観に基づいているのだ、という。子供らしさと言うのが大人が作った子供観に基づいているように、女らしさというのは、男の作り出した女性観に基づいているのだという、長い歴史の中で女らしさを要求してきたのは男であった。しかし女の子は、なぜヒゲを生やしてはいないか、という生理的な条件と、「らしさ」は区別すべきであるといっている、「らしさ」は後天的に作られるという。

 

生理的な条件とらしさ

 寺山修司は生理的な条件と「らしさ」を区別すべき、といったが、それが同じように「○○らしい」で括られる場合もあると思う。例えばヒゲの例で言えば、「ヒゲが生えていない」=「女らしい」というものだ。ヒゲが生えていない女というのは生理的に生えていないというわけだが、反対に生えている女というのもいる、そのため「女らしくない」と言われることがあるかもしれない、体毛が濃い女だっているにもかかわらず。けれども、生えているからと言って、そういっていいのか、というのは考える必要があると思う。

 

子供らしさ、それと似たものとして、<経験者からの助言>

 寺山修司のいうように、たしかに飲んでもドクターストップがかかるわけではないのにお酒を飲むのが子供は禁止されているというのは大人の作った子供観に基づいている、というのはあると思う。もちろんそれ以外にも、法律的に駄目と言う理由はあるにしても、けれども、その根源を考えるならば、「子供らしくないから子供はお酒飲んでは駄目」というのはあるとおもう。お酒に関していえば例えば19歳だったらいいのか、とか、成人式を迎えたけれども20歳ではない、とか、いろいろと議論はありそうだ。

 

 子供たちは自ら「子供らしさ」を規定しようとしているのかは疑問だ、また、子供に「子供らしさとは?」と聞いてなんと返って来るのかは気になる。大抵の場合大人が「子供らしさ」を規定しているように思う。ここで、特異だと思うところは、大人が一度子供を体験していることだ。

 

 大人が一度子供を体験しているように、どこか目的のものにたどり着いた存在と、まだ目的についていない存在というのはあると思う。例えば、旅行、先に目的地に着いた人が電話でまだ目的地に着いていない人に次のようにいったとする、「まだそこか、だったら語るには早いね」、このように言うことは大人が子供に対して「まだ人生は語るな」と言っていることと近いように思う。

 

 子どもが大人に助言されるように、経験していないものが経験したものから助言されるというのはためになることもあれば、腹立たしいこともある。

 

男らしさ

 寺山修司の参照したものだと、男らしさということは書いておらず、女らしさしかなかったが、男らしさというのも当然いいか、わるいか、ある。ジレットのcmがそれで話題になったようだ。

 筋肉があるとか、力持ちとか豪快だ、とかいうのがよく言われる男らしさのなんとなくのイメージだろうか。しかし力がない男や、豪快ではない男もいる。

 

女らしさ

 女らしさと言われて、よくイメージされるのが、男に反対してのものだろうか、男が強いのに対して弱いとか、男が豪快なのに対して繊細とか、男が外に出て働くのに対して家で働くとか…もちろんそうではない、場合もたくさんある。

 

男らしさと女らしさ

 いろいろと男らしさと女らしさについて書いてきた。ニュースサイトしらべぇではマツコが次のように言っている。

女性目線(または男性目線)っていう言葉自体が、女性(男性)に対する偏見や差別の上にできている。女の人がイイものは男性もイイ。イヤなものは男性もイヤ

 

 (ニュースサイトしらべぇ、「女性目線は「男性が求める女性の目線」 マツコ・有吉の持論に共感殺到」、2018年、文/しらべぇ編集部・サバマサシ イラスト/ミキシマ)

  たしかにそういったものもあるだろう。マツコのいうように女性目線とか男性目線とかいう言葉が嫌だ、気持ち悪いという人もいるだろう。実際そのようなこともあると思う、例えば虫とか、…「男女の別なくない」、と思うことがある。あるいは汚いところとか…これは大抵嫌なのではないか、人間であれば。

 

自分らしさ

 様々見てきた、子供らしさ、男らしさ、女らしさ。次は自分らしさについて、これは例えば<自分らしさを求めて>というテーマの番組や企画だと、非難されることが多いように思う。けれども、自分らしさと言うのは求めるべきだと思うこともあるし、努力も要するのだろう。どの程度自分らしさを求めるのがいいのか、ということが問題のように思う。それがごく限られたものだと嫌になってくる。

 

三島由紀夫の「らしさ」と「くささ」

 以下は三島由紀夫の「不道徳教育講座」の一テーマ、<「らしい」と「くさい」>を参照した。

 らしいとくさいを並べた時、芸術家や軍人が「らしい」といわれることはいいことだが、「くさい」といわれることはよくないという、軍人は「軍人らしい」べきではあるが、「軍人くさい」と言われればやりきれない。この世には様々な職業があって、これは人間にはめられる鋳型であるといっている。また、人間が全人格を職業に支配されて、日常の言動までも職業にふりまわされるようになるといよいよ「くさく」なってくるという、例えば女優くさい女優。または小説家くさい小説家、頬はコケて、無精ひげで、色青ざめて、憔悴していて、やたらに溜息をついて…。けれどもそのような「くさい」タイプも、世のなかがだんだん単一化されていくと、値打ちが出てくるようだ、泉鏡花の小説によく出てくるお巡りさんがいうように「ははあ、葛木ですかね、姓ぢやね、苗字であるですね。名は何と云はるるですか」というお巡りさんがもしそこらの町角から出てきたら、いかに愉快だろうか、と言っている。

  

「らしさ」と「くささ」とそのもの

 上の三島由紀夫のところでは「くさい」ということについて書いてあった。三島由紀夫のいっていることは、「くさい」というのは「らしい」よりもある鋳型(例えば職業)に支配された場合にそう呼ばれるということだろうか。しかし「くささ」というのも、めったに他にあらわれなくなると、希少価値が上がって、逆にいい、ということもあるようだ。

 

 そのものと「○○らしい」と「○○くさい」というのは違う。

「今日は雨だ(そのもの)」と言う時と「今日は雨らしい」と言う時と「今日は雨くさい」と言う時は違う。確実性で言えば、そのものが一番確実性が高く、くさいがその次で、らしいというのが一番確実性が低いように思う。

 

まとめ

 最初に、「らしさ」というのは人に対して使う時はとりあつかい注意な言葉だといったうえで、寺山修司の言う「らしさ」、「子供らしさ」、<経験者からの助言>、「女らしさ」、「男らしさ」、マツコの言う「らしさ」、「自分らしさ」、三島由紀夫の言う「らしさ」と「くささ」、そのものと「くささ」と「らしさ」など、さまざま書いてきた。

 一度整理しておきたかったため、書けて良かったと思う。これからも「らしさ」についてはもっとみていきたい。

 

参考

今回とりあげたもの… 

・寺山修司、「さかさま恋愛講座 青女論」、角川文庫、1981年 

・ニュースサイトしらべぇ、「女性目線は「男性が求める女性の目線」 マツコ・有吉の持論に共感殺到」、2018年、文/しらべぇ編集部・サバマサシ イラスト/ミキシマ

・三島由紀夫、「不道徳教育講座」、角川文庫、2010年