「らしさ」について

<はじめに>

 「らしい」、「らしくない」、「らしさ」というのは様々な時に使われる。

 「らしさ」というのは何か固まった、型がある、というイメージをもっている。それは、いい意味でつかわれる時もあると思う。「○○さんらしさがあるね」、こういった場合は言われて嬉しいのではないだろうか、独特と言う意味で(が、それも言われ続けたり、皮肉を込めて言われていたりした場合嫌だが)。反対に、そのらしさがすごく限られたものだと嫌になる時もある、「○○さんらしくない」と言われる、またはなにか作品を作っているときに、手本となる人物がいて「○○さんらしくつくらなければ…」と思う事は、大変なのかも知れない。

 メディアでよくいわれる「らしさ」というのは批判的なものが多いような気がする、「なんで○○らしくしなきゃならないのか…」

 人に言うわけではないときの「らしさ」というのはもっと軽く使えるだろうか、「明日の天気は雨らしい」、「中止らしい」、「あほらしい」、「馬鹿らしい」…、

 人にたいして使う言葉と言うのは、よく考えて言わなければ、受け手の様々な解釈によって問題を引き起こすことがある、「らしい」もその一つだと思う。今回は「らしさ」についてみていきたい。

 

 

寺山修司の「らしさ」

 以下は寺山修司の「さかさま恋愛講座 青女編」の第八章、<——らしさ>を参照した。

 寺山修司は、子供がお酒を飲んでいけない、あるいは喫煙してはいけない理由の一つとして、飲んだら、喫煙したら子供らしくないから、というのがあるとする、例え飲んだり、喫ったりしても、それがドクターストップをかけられるほどの害はないにしても、つまり子供らしさと言うのは大人が作った子供観に基づいているのだ、という。子供らしさと言うのが大人が作った子供観に基づいているように、女らしさというのは、男の作り出した女性観に基づいているのだという、長い歴史の中で女らしさを要求してきたのは男であった。しかし女の子は、なぜヒゲを生やしてはいないか、という生理的な条件と、「らしさ」は区別すべきであるといっている、「らしさ」は後天的に作られるという。

 

生理的な条件とらしさ

 寺山修司は生理的な条件と「らしさ」を区別すべき、といったが、それが同じように「○○らしい」で括られる場合もあると思う。例えばヒゲの例で言えば、「ヒゲが生えていない」=「女らしい」というものだ。ヒゲが生えていない女というのは生理的に生えていないというわけだが、反対に生えている女というのもいる、そのため「女らしくない」と言われることがあるかもしれない、体毛が濃い女だっているにもかかわらず。けれども、生えているからと言って、そういっていいのか、というのは考える必要があると思う。

 

子供らしさ、それと似たものとして、<経験者からの助言>

 寺山修司のいうように、たしかに飲んでもドクターストップがかかるわけではないのにお酒を飲むのが子供は禁止されているというのは大人の作った子供観に基づいている、というのはあると思う。もちろんそれ以外にも、法律的に駄目と言う理由はあるにしても、けれども、その根源を考えるならば、「子供らしくないから子供はお酒飲んでは駄目」というのはあるとおもう。お酒に関していえば例えば19歳だったらいいのか、とか、成人式を迎えたけれども20歳ではない、とか、いろいろと議論はありそうだ。

 

 子供たちは自ら「子供らしさ」を規定しようとしているのかは疑問だ、また、子供に「子供らしさとは?」と聞いてなんと返って来るのかは気になる。大抵の場合大人が「子供らしさ」を規定しているように思う。ここで、特異だと思うところは、大人が一度子供を体験していることだ。

 

 大人が一度子供を体験しているように、どこか目的のものにたどり着いた存在と、まだ目的についていない存在というのはあると思う。例えば、旅行、先に目的地に着いた人が電話でまだ目的地に着いていない人に次のようにいったとする、「まだそこか、だったら語るには早いね」、このように言うことは大人が子供に対して「まだ人生は語るな」と言っていることと近いように思う。

 

 子どもが大人に助言されるように、経験していないものが経験したものから助言されるというのはためになることもあれば、腹立たしいこともある。

 

男らしさ

 寺山修司の参照したものだと、男らしさということは書いておらず、女らしさしかなかったが、男らしさというのも当然いいか、わるいか、ある。ジレットのcmがそれで話題になったようだ。

 筋肉があるとか、力持ちとか豪快だ、とかいうのがよく言われる男らしさのなんとなくのイメージだろうか。しかし力がない男や、豪快ではない男もいる。

 

女らしさ

 女らしさと言われて、よくイメージされるのが、男に反対してのものだろうか、男が強いのに対して弱いとか、男が豪快なのに対して繊細とか、男が外に出て働くのに対して家で働くとか…もちろんそうではない、場合もたくさんある。

 

男らしさと女らしさ

 いろいろと男らしさと女らしさについて書いてきた。ニュースサイトしらべぇではマツコが次のように言っている。

女性目線(または男性目線)っていう言葉自体が、女性(男性)に対する偏見や差別の上にできている。女の人がイイものは男性もイイ。イヤなものは男性もイヤ

 

 (ニュースサイトしらべぇ、「女性目線は「男性が求める女性の目線」 マツコ・有吉の持論に共感殺到」、2018年、文/しらべぇ編集部・サバマサシ イラスト/ミキシマ)

  たしかにそういったものもあるだろう。マツコのいうように女性目線とか男性目線とかいう言葉が嫌だ、気持ち悪いという人もいるだろう。実際そのようなこともあると思う、例えば虫とか、…「男女の別なくない」、と思うことがある。あるいは汚いところとか…これは大抵嫌なのではないか、人間であれば。

 

自分らしさ

 様々見てきた、子供らしさ、男らしさ、女らしさ。次は自分らしさについて、これは例えば<自分らしさを求めて>というテーマの番組や企画だと、非難されることが多いように思う。けれども、自分らしさと言うのは求めるべきだと思うこともあるし、努力も要するのだろう。どの程度自分らしさを求めるのがいいのか、ということが問題のように思う。それがごく限られたものだと嫌になってくる。

 

三島由紀夫の「らしさ」と「くささ」

 以下は三島由紀夫の「不道徳教育講座」の一テーマ、<「らしい」と「くさい」>を参照した。

 らしいとくさいを並べた時、芸術家や軍人が「らしい」といわれることはいいことだが、「くさい」といわれることはよくないという、軍人は「軍人らしい」べきではあるが、「軍人くさい」と言われればやりきれない。この世には様々な職業があって、これは人間にはめられる鋳型であるといっている。また、人間が全人格を職業に支配されて、日常の言動までも職業にふりまわされるようになるといよいよ「くさく」なってくるという、例えば女優くさい女優。または小説家くさい小説家、頬はコケて、無精ひげで、色青ざめて、憔悴していて、やたらに溜息をついて…。けれどもそのような「くさい」タイプも、世のなかがだんだん単一化されていくと、値打ちが出てくるようだ、泉鏡花の小説によく出てくるお巡りさんがいうように「ははあ、葛木ですかね、姓ぢやね、苗字であるですね。名は何と云はるるですか」というお巡りさんがもしそこらの町角から出てきたら、いかに愉快だろうか、と言っている。

  

「らしさ」と「くささ」とそのもの

 上の三島由紀夫のところでは「くさい」ということについて書いてあった。三島由紀夫のいっていることは、「くさい」というのは「らしい」よりもある鋳型(例えば職業)に支配された場合にそう呼ばれるということだろうか。しかし「くささ」というのも、めったに他にあらわれなくなると、希少価値が上がって、逆にいい、ということもあるようだ。

 

 そのものと「○○らしい」と「○○くさい」というのは違う。

「今日は雨だ(そのもの)」と言う時と「今日は雨らしい」と言う時と「今日は雨くさい」と言う時は違う。確実性で言えば、そのものが一番確実性が高く、くさいがその次で、らしいというのが一番確実性が低いように思う。

 

まとめ

 最初に、「らしさ」というのは人に対して使う時はとりあつかい注意な言葉だといったうえで、寺山修司の言う「らしさ」、「子供らしさ」、<経験者からの助言>、「女らしさ」、「男らしさ」、マツコの言う「らしさ」、「自分らしさ」、三島由紀夫の言う「らしさ」と「くささ」、そのものと「くささ」と「らしさ」など、さまざま書いてきた。

 一度整理しておきたかったため、書けて良かったと思う。これからも「らしさ」についてはもっとみていきたい。

 

参考

今回とりあげたもの… 

・寺山修司、「さかさま恋愛講座 青女論」、角川文庫、1981年 

・ニュースサイトしらべぇ、「女性目線は「男性が求める女性の目線」 マツコ・有吉の持論に共感殺到」、2018年、文/しらべぇ編集部・サバマサシ イラスト/ミキシマ

・三島由紀夫、「不道徳教育講座」、角川文庫、2010年