反対の仕方について (「楽しんでやりたい」という言葉への反対)

 最近、動画で見たスポーツのインタビューである選手が(名前は言わないが)「結果ではなく楽しんでやりたい」ということをインタビューで言っていた。しかし、自分はそれに対してよく思わなかった。もちろん、「楽しんでやりたい」ということはいいことではないだろうか。例えば、テレビドラマでそのような表現がでてきたら、いいBGMが流れてきそうだ。にもかかわらず、反対してしまった(反対の行動を起こすというわけではなく、反対だと思う、というほうがより近い。嫌悪ともいう。)。

 それはなぜか、ということを書いていきたいと思う。また、そのような反対の仕方(「楽しんでやりたい」ということはいいことにもかかわらず、反対してしまう)はなぜよくは思わないか、ということもあわせて書いていきたいと思う。

 まずは、なぜ「楽しんでやりたい」ということがよく思わなかったのか、という理由を四つ挙げる。

1.それを言った選手に見合っているとは思っていないから

 これはこちらの主観的な感覚であるが、その選手は「楽しんでやりたい」といっているわりには、楽しそうに思えなかった。

2.何度も言いすぎだから

 これはかなり決定的な理由かもしれない。やはりたいていのことは何度も言っているとしつこく感じてしまう、そういう経験をしている。結構そのインタビュー中に「楽しんでやりたい」ということを言っていた。だから、嫌気がさした。

3. 「楽しんでやりたい」と思うことが結果として、「楽しかった」と思うことにつながるのだろうかと疑問に思ったから 

 これは、もちろん試合が始まる前にわくわくするというのは、どこか楽しそうでいいのではないか。しかし、それが結果として「楽しかった」というふうにつながるわけではないと考えた。といっても、動画で見た限りは、インタビューが行われたのは、試合前、または試合後、と言うわけではない、から、どちらとも言えないが、<試合前は「楽しみたい」とは思わずに、試合後に「楽しみたい」(思い出に浸るのがすきなタイプだろうか)と思う>ということは少ないと思ったので、その選手もおそらく試合前にも「楽しみたい」とおもっていたのではないか、と推測する。

4,  主観的な判断から

 これはまったく、主観的な判断で読者にはあてにならないかもしれない。「楽しもう」と思う人ほど、実は楽しんでいないのではないか、と思う経験が何度かある、むしろそちらのほうが多い。

 

 

 楽しんでやりたい、ということに反対の気持ちが起こった理由を上に四つ書いてきた。しかし、「楽しんでやりたい」と思う事自体は、悪いとは思わない。先ほども言ったが、それはテレビドラマで言う、いいBGMが流れる瞬間だと思う。

 では、そのような反対の仕方(「楽しんでやりたい」ということ自体はいいことにもかかわらず、反対してしまう(あるいは、してしまった)こと)はなぜよくは思わないかということを書いていきたい。

 それは、もし仮に、その反対の組み合わせがあわさっていたならば——どちらも嫌いだと思っていたのであれば(上で見たきた理由の例で言えば「楽しんでやりたい」ということと、四つのそれぞれの組み合わせが)、それはかまわないと思う。

 しかし、既に挙げたように、自分は一方(楽しんでやりたいと思うこと)はいいと思ったにもかかわらず、もう一方(<楽しんでやりたいと思う事に付随する、また、発言者に付随する、先に紹介した、四つの事>)はよくは思っていない。その場合はなぜよくないのか、と思うと、今後起こりうることを想定したときに、よくないと思うのである。

 例えば、誰かが、これから、「楽しんでやりたい」と言ったとする。それをそのままの意味で、肯定的に受け取ればいいのだが、もし仮に今回見たインタビューを思い出してしまったら(楽しんでやりたいと思う事はいいことなのにもかかわらず、それ以外で四つ反対してしまった理由があった)、それはもしかしたら、本当は、いいことなのにもかかわらず、インタビューを思い出したせいで、反対(嫌悪)のほうへ向かっていってしまうのかもしれないと思ったからである。かなりわかりづらくなってしまっただろうか。…例を挙げる。

例1 例えばaさんと言う人がいたとする。aさんのもつものはいい、と自分が思っているにもかかわらず、aさんが嫌いだとする。その場合、aさんのもつものも嫌いになったとする(aさんのもつものは本来ならいいと思っているのに)。それゆえ、bさんと言う人が出てきたら、bさんはきらいではないにもかかわらず、自分がbさんがもつaさんのもっていたものも、本来は、自分はそのaさんのもつもの自体はいいと思っていたにもかかわらずaさんが嫌いなせいで、嫌いになってしまうのではないか。

 もう一つ例を挙げる。

例2 例えばcさんと言う人がいたとする。cさんの眼は巨大である。眼が巨大であることは悪いことだとは思っていない。むしろいいことだと思っている。しかし、cさんが嫌いである。その場合、cさんの眼も嫌いになる。それゆえ、dさんという人が出てきて、その人が巨大な眼をもっていたら、dさん自身は嫌いではないのにcさんを思い出してしまって、そのdさんの巨大な眼もきらいになってしまう(本来は巨大な眼はいいとは思っていたにもかかわらず、cさんのせいで)のではないか。

 

 以上三つの例を挙げてきた。こんな例を挙げてきた——それぞれのもの(楽しんでやりたいということ、aさんのもつもの、眼が巨大だということ)は、悪いとは思っていない、しかし、それの近くに付随するもの(四つの反対した理由、aさんが嫌いだという事、cさんがきらいだということ)が自分がいやだと思っている。そういった場合、仮に楽しんでやりたいということ、aさんのもつもの、眼が巨大だということに接触した場合、それぞれに付随するいやなもの(四つの反対した理由、aさんが嫌いだという事、cさんがきらいだということ)を思い出してしまうかもしれない。

 

 この場合、問題は、経験にしたがってしまっているといえば、いいのだろうか、——もしかしたら、今後新しく出てきたもの(例えば今後「楽しんでやりたい」と言う人がでてくるかもしれない。また、aさんのもつものを持つ人が出てくるかもしれない。または、眼が巨大な人が出てくるかもしれない。)が、嫌だとは限らないかもしれないが(今後いいという方向に向かうかもしれないのに、また、経験以外にもいいものが新しく出てきたものに備わっていた場合に)、経験で(四つの反対した理由、aさんが嫌いだという事、cさんがきらいだということ)、嫌だと言ってしまっていいのか(反対していいのか)、ということである。これはいい反対だとは思わない。

 

 説明がうまくないため、かなりわかりづらくなってしまったような気もする。

 

 

 これは、何も反対の事だけではなく、賛成(の方向に向かうもの)の場合もそうである。以下、例をひとつ挙げる。

例3 例えばkというミュージシャンがいる。自分はミュージシャンのkが好きである。そのkというミュージシャンは、「健康なんて気を使わなくてかまわない」と言ったとする。自分は、「健康なんて気を使わなくてかまわない」ということに対しては、よくは思っていなかった。しかし、kというミュージシャンがそう言ったことによって、「健康なんて気を遣わなくてかまわない」と思うようになった。仮に嫌いなミュージシャンlという人物がいて、その人物も「健康なんて気を遣わなくてかまわない」ということを言っていた。自分は、本当は「健康には気を遣わなければ」と少しでも思っていたかもしれないけど、kというミュージシャンを思い出して、lという嫌いなミュージシャンが言った「健康なんて気を遣わなくてかまわない」という発言に賛成する。

 

 これは先に出した、よくない反対がある場合と同じように、よくない賛成と呼びたい。

 この場合も、もしkというミュージシャンと、「健康なんて気を使わなくてかまわない」という言葉がどちらもいいという方向に向かっていればかまわないと思う。しかし、仮に例に出したように、食い違っていた場合、ミュージシャンk以外の他の嫌いな人物が出てきたとしたら、その他の人物の言っていることも本当はいいことだとは思わないけど、kというミュージシャンに影響されて、いいと思ってしまうかもしれない。

 

 以上、ものをそれぞれいいということ、悪いということに分解し、あるひとつの存在が悪くはないと思っているのに(反対に良くはないと思っているのに)、もう一方の存在が悪いと思っているがゆえに(もしくはいいと思っているがゆえに)、次にでてきた、あるひとつの存在、というものが先のもう一方の存在に影響されていく、ということをみてきた。

 

 

 もちろん、良いということ、悪いということの二つ以外の選択肢以外もあるだろう。つまり良いということ、悪いということ以外にもさまざま分解可能であろう。

 また、<よくない反対>あるいは<よくない賛成>と言ったところで、反対・賛成を決定づけるものは他にも多くあるのだろう。しかし、今回はそれを決定づけるのは、<一方が嫌いという方向に向かう状態>あるいは<一方が好ましい方向に向かう状態>とした。

 

 

 以上のことを踏まえ、最初に戻れば、インタビューで「楽しんでやりたい」という発言をしたスポーツ選手の「楽しんでやりたい」という部分を反対するのは遠慮しておきたい。が、上で述べてきたように「楽しんでやりたい」という言葉そのもの以外には、反対したい気持ちがある。

 

 

(かなりわかりづらい文になってしまった。文にしたから、わかりづらいのかもしれない。自分は書いたから理解できるのだが、改めて投稿した文を見てみると、最初から読もうとするのは、気が進まない。)