川村晃著「美談の出発」(第47回 (1962年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 以下話の内容や感想などを述べる。

 

 

 

話の内容

 製板の仕事をしている(カキ屋・筆耕職人とも)をしている私のもとに一緒に暮らすことを決めた病気がちの由紀子が連れ子である四人を時間差はあれ連れてくることにした。その4人の連れ子のうち二人は由紀子が母親であるのだが、あと二人の母親は別である。 (多分この母親が前に付き合っていた父親がもっていた子供なのだろう。) 

 子供が来たこともあり、狭い部屋で、大屋にも子供と連れてくることは嫌がられ、また、私には借金があり……生活は貧乏で苦しい。

 私の仕事先の人物である野沢はカキ屋同士の組合を作ろうとしているが、私はそれに協力することに疑問を持っている。

 

 特に母親が由紀子ではない子供を家に連れ込んできたことによって起こりうること、それから仕事先での組合の問題などが主人公である私にとって負担となっていった様子が中心にかかれている。

 

感想

 題名でもある美談というのは幾らか出てきている。その美談は、語の使われ方からすれば当然ではあるのだろうが、よくない側面があってこそ使われることがある。話中では、私は、組合を作って立ち向かう以前の問題——家庭の問題をもっておりそれは組合を作れば、また組合に入れば解決できるのかということについては疑問を持っている、というところがあって、それを皮肉のように組合を作ろうとしている野沢という男に「ちょっとした美談だものね、」と言われるシーンがある。確かに組合を作ればある程度大きなかたまりとなって解決するようなこともあるのだろうが、それがどの程度の範囲のものなのか、というのは考える必要があると思った。

 

印象に残ったところ

 母親が由紀子ではない千代麿は寝るときに唸り声をするのだが、隣のいやな感じのする稲岡という人物にはそれを聞かせることによって借りを作りたくない。そこで私は仕事をして音をかき消そうとしたところ。——

 私はヤスリを裏返しにして線引きをはじめた。布を引き裂く音に似ていた。稲岡家では眉をひそめることだろう。だが、千代磨の唸り声をそのまま聞かせるよりはまし、と私はおもった。一枚、二枚、とかたづけていった。定規を押さえる左手も鉄筆をかまえる右手も正確にはたらいていた。しだいにピッチが上がった。 (221頁)

 唸り声、仕事の音、それはどちらも聞く人によってはうるさいのだろうが、仕方ないから仕事をしている音の方がいいのだ、といった様子が印象に残った。

 

選評

 瀧井孝作、川端康成、丹羽文雄、舟橋聖一、石川達三、井上靖、永井龍男、中村光夫、石川淳、高見順の十委員出席(井伏鱒二委員欠席)のもとに、銓衡委員会を開催。

 

 井伏鱒二は以下のようにいう。

 川村晃の「美談の出発」は作者の経験事実談かもわからない。そのせいか説明たらずのところもあるし説明過剰のところもある。 (433頁)

 

 中村光夫は以下のようにいう。

 川村晃氏の「美談の出発」も、作者が、ひとり合点を楽しんでいる小説で、そのいい気なところに反撥する人がいるのは当然だし、技術的に未熟という評もあたっています。しかし作者が何か書きたいものを持ち、それがはっきりしない形でも、とにかくでていることは確かです。ただそれが表現以前といいたいほどナマなものであるのが、種々の危惧をいだかせますが、あることはあるのです。

 新人への受賞は、折紙をつける場合も、賭けする気持でする場合もあり、それでよいのだと思います。 (427-428頁)

 

川村晃について

 「芥川賞全集 第6巻」より一部抜粋する。

 昭和2年(1927) 十二月三日、父四郎、母千代の長男として台湾嘉義市に生まれる。父は秋田県鹿角市出身で、嘉義高等女学校の音楽と図画の教師。母は大阪市出身で、これまた元教師。

 昭和25年(1950) 23歳 一月、倫理的にも経済的にも窮迫し、このままでは空しく自滅するほかないと考え、自己の変革も願って、きびしく弾圧されるようになった日本共産党に入党。しかし、当時、党内はコミンフォルムによる批判をめぐって分裂抗争しはじめており、大いに困惑し、失望する。

 昭和28年(1953) 26歳 地上に出て中小業者の税金対策の仕事にたずさわるが、酒で失敗。その後、筆耕職人として謄写印刷所に住み込んで働くかたわら、町の青年を対象とした文化活動に情熱をそそぐが、またしても酒で失敗。

 昭和37年(1962) 35歳 三月、「美談の出発」(文學街)を発表。

 

  

参考

今回読んだもの 川村晃、「美談の出発」 (「芥川賞全集 第6巻」より)、文藝春秋、1982年