桃尻関係

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感想・蹴りたい背中はないか・後ろ姿とはなにか——綿矢りさの小説を読んで

 今回読んだ本は綿矢りさの「蹴りたい背中」である。これは第130回(2003年下半期)芥川賞を受賞した作品である。

 

「蹴りたい背中」の内容

 高一の主人公の私とにな川は周りに馴染めていない。にな川はオリチャンという女性ファッション誌に出てくる女性が好きだった、そして私に振り向いてくれない。私はにな川の背中を蹴りたくなった。

 

背中に対してどのように感じるか

 背中には多くの意味があるのではないか。頼もしい背中もあれば頼ましくない背中もある、哀愁漂う背中もあれば、へなちょこな背中もある。何らかの茶々を入れたくなるような背中もある。

 

背中を蹴りたいということはないか

 そういう見出しにしてしまうとあまりよくないだろうか。しかし茶々を入れる、ということと似た意味合いで、背中を向いてふり向いてくれないもどかしさから何かしてやりたい、そういうときにふと(蹴りたい)と思うこともないことはないかもしれない。

 

「蹴りたい背中」ではどんなときに蹴りたいと思ったか

 背中という語はちらほら本文中に見たが、それを蹴りたいと思ったのは、最後のほうと前半の後半部(76頁)ではないだろうか。どちらも共通しているのはにな川にとってのアイドル的存在のオリチャンという人物をにな川が思う後で主人公の私は背中を蹴りたいと思っている。後半のほうはより曖昧な感じがするので前半の後半部のほうを見ると、——にな川は部屋でオリチャンのラジオを聴いている。片耳で聴いている。主人公の私が何でか聞くと、私のほうを迷惑そうに振り向く、振り向いても私を人間とも思っていないような目をしている、にな川は「この方が耳元で囁かれている感じがするから。」と答える。そしてまたオリチャンの声の世界に戻る背中を見ていると息が熱くなってきて私は(背中を蹴りたい)と思った。

 

「蹴る」ということ

 「蹴る」という語は何を表すのか。パッと思いつくことで、蹴るということは、身体の動作としての「蹴る」ではないだろうか。しかし他にも「蹴る」という語を使う時はないだろうか。例えば予定を「蹴る」、約束を「蹴る」。身体の動作以外の「蹴る」と似たような意味だろうか、<コトバンク>で調べると、以下のような意味もあった。

「蹴る」 要求・提案などを受け入れないで、きっぱり断る。はねつける。拒絶する。(<コトバンク>、出典=小学館)

 

後ろを向くということ

 背中と似たような意味として、後ろを向くということがあるのではないかと思う。これは決して背中に限定されない。他の人が後ろを向くときはどんなときだろうか。何か没頭しているときだろうか(その場合、没頭していることに対しては前を向いている)。あるいは意図的に後ろを向かれて、拒絶の意味もあるのだろうか。向かれた側はどう思うのだろうか。「もっとかまってほしい」と思う方もいると思う。

 自分は、例えばある講演があったとして、そこで周りは前を向いている、そして周りは自分に対しては後ろを向けている、というのを見ると、かなしくなるということもある。顔を見たくない人であれば、または向き合って顔を合わせなくていいという点では、後ろを向いてくれてむしろ助かるのであるが、後ろを向いた人に対して(どんな方なんだろう)、そんなふうにも思う。また、一種不気味さのようなものも感じる。何か特徴的であれば別だ。そうでなければ、なんて味気ないんだ、と後ろ姿を見て思うこともある。

 

 このまえ読んだ増成隆士の本にはいくつか後ろ姿を向くとはどういう意味があるのか、ということがあった。

 そこには例えば動物やスポーツカーや借金取りがこちらを向いていたら緊張する、ということが書いてあった(191頁を参照)。そういう意味では後ろ姿を向いてくれるということはいい意味もあるのではないか。しかしいい意味だけではない。例えばバスに乗るべく停留所に向ったのにバスが出ていて背を向けていれば自分が、乗り遅れたということを意味するし、なにか競争をしているときに人の後ろ姿を見る、ということはその人に負けていることを意味する(193頁を参照)。

 それ以外にも増成隆士は後ろ姿の意味としてどういったものがあるのか、ということをマグリットの<不許複製>(ページ下を参照)という絵を参考として、書き進めている。マグリットの<不許複製>という作品は、鏡を見ているにもかかわらず、鏡はこちら側を向いてくれない、というものである。

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マグリット、「不許複製」

 増成隆士は後ろ姿には拒絶という意味もあるのではないか、とする。一つとして、後ろ姿でもコミュニケーションは図れるが、言うことに耳を傾けてくれない、または語りかけようとしてくれない、いわば<コミュニケーションの一方的否定>があるのだという。これを<不許複製>にあてはめるのであれば、画中の<私>は自分自身と視覚的に語り合うことができない、という。

 なぜ後ろ姿が拒絶につながるのか、という二つ目の理由として人間の身体上の主要な部分、眼をはじめとした主要器官が前側に集中しているためだ、という。

 また、例えば相手の身体を抱擁する場合、あるいは食べ物を食べる場合、身体の前側でするのであって、そういう意味では後ろ姿というのは受容のできない姿であって、そこから拒絶という意味にもつながるのだという。

(「拒絶」の箇所は194-195頁を参照)

 

以上、長々と書いてきたわけだが、どういうことを言いたいのかというと「蹴る」ということには身体的な動作以外にも例えば「予定を蹴る」であったり「約束を蹴る」であったり、<拒絶>を表す意味もある。この<拒絶>が綿矢りさの「蹴りたい背中」でも現れていたか、というところはにな川が痛がっているシーンがあるので身体的に蹴ったのであって、はっきりしないが、当てはめてみるのであればファッション誌の女性に熱中したにな川がいやで受け入れたくないということがあるのではないか。そういう意味ではこれは一種の<拒絶>とも言えるのではないだろうか(と言っても突っぱねているというわけではない。(否定したい)という意味に似ているか。すこし、無理やりの感もあるだろうか、拒絶についてはもっと見ていく必要がある)。

 それで増成隆士の文で見てきて、背中というよりも、後ろ姿には<拒絶>という意味合いがあったが、これに対して「蹴る」という動作をもって<拒絶>(ファッション誌の女性に熱中しているにな川に対して)したかったのではないだろうか。拒絶されたら、拒絶したくなる、ということもあるのではないだろうか。

 

その他

 他にも背中ということから、もしこっちを向いたらどうなるのだろうか、——振り向くという動作も気になった。サッカーの「ふり向くな君は美しい」やザ・ピーナッツの「ふりむかないで」やエメロンクリームリンスのcmの「ふりむかないで」などはなぜふりむかないことを望むのか、それにはどんな意味があるのかということにも興味がある。

 マグリットの絵を載せたので、背中を蹴りたいということが<拒絶>という方向に向かって書いていったが、そうでない方向へ読んでいくことももちろん可能だと思う——背中を蹴りたいと思った理由が単にアイドル的存在に傾いていったことへの嫌悪なのか、あるいは高一という時期を書いた作品なので、言葉では言い表せないもどかしさもあるのか……

 

参考

・今回読んだ本…綿矢りさ、「蹴りたい背中」、河出文庫、2007年

・本文中に引用した本…増成隆士、「思考の死角を視る マグリットのモチーフによる変奏」、勁草書房、1983年

・本文中に引用した絵画…マグリット、<不許複製(La Reproducion Interdite)>、1937年

出典:https://www.wikiart.org/en/rene-magritte/not-to-be-reproduced-1937