芥川龍之介の作品を読み漁る——「文放古」、「大導寺信輔の半生——或精神的風景画——」

「文放古」

ぱっと題名を見て惹きつけられた。文放古ってなんだ——調べてみたがでてこなかったので芥川のほかの作品「お時儀」といいこれもまた当て字なのだろう。反故の当て字なのだろうか。

話は日比谷公園のベンチの下に西洋紙の文放古が落ちていたというところから始まる。そこには見逃してはならぬ一行があった。<芥川龍之介と来た日には大莫迦だわ。>読み進めていくとこれを書いた女は九州の片田舎で芝居は無し、展覧会は無しで退屈な生活をしているらしい。そこへきて親戚が結婚話を持ってくるので困っているのだという。相手もなかなかいいのがおらず…一人は社会問題の研究をしている山本という電燈会社の技師でもう一人は文雄という永井荷風だの谷崎潤一郎だのを読んでいる遊蕩児らしい。けれども日本の小説には誰もこういう結婚難に悩んでいる女性を書いた作家がいなくて結婚難を解決する道を教えてくれない、さらには芥川は「六の宮の姫君」で意気地のないお姫様を罵っている、女は自活もしていけない。そのため芥川を罵ったこの手紙を書いたのだという。主人公わたしはこれを読んで軽蔑したと同時に同情も感じた。そして引き出しに入れたというところで終わり。

手紙が充てられたのではなく、偶然公園のベンチの下に落ちていたという設定が面白いなと思った。最後の手紙を机の引き出しの奥に手紙をしまったというところで「私自身の夢も、古い何本かの手紙と一しょにそろそろもう色を黄ばませている。……」というところがうまいなと思った。ここでいう夢とは何なのだろうかとも思った。

 

「大導寺信輔の半生——或精神的風景画——」

大道寺信輔がどういう人物か六つに分けて書かれてある。どういう人物かざっというと本所の回向院に生まれ、家庭が貧しく、学校嫌いだが本は好きだというような人。特に六つ目の「友だち」というのが印象的だった。——ここで出てきた人物はリヴィングストンの崇拝者なのだがこれは「一夕話」にもでてきた和田という男と被る。このリヴィングストンの崇拝者に信輔はバイロンさえリヴィングストン伝を読んだのだというでたらめを言うと、教会の機関雑誌に相変らずリヴィングストンを賛美した文章を載せていた。<悪魔的詩人バイロンさえ、リヴィングストンの伝記を読んで涙を流したと言うことは何を我々に教えるであろうか?>

なんというリヴィングストンに対しての崇拝の度合い。信輔がでたらめを言ったにもかかわらず信じてしまった。これを読んでリヴィングストンという人物を知らないだけによりどんな人物か気になった。

 

参考 芥川龍之介、『芥川龍之介全集5』、ちくま文庫、1999年