田中康夫著『なんとなく、クリスタル』を読む

 前々から気になっていた『なんとなく、クリスタル』(新潮文庫)を読んだ。この本には多くのブランドが登場する。また、ブランドには多くの注釈がついている。数えてみると、213ページのなかで442もの注釈がでてきた。右ページに本文があり、左ページが注というスタイル。これだけ注釈の付いた話は読んだことがなかった。

 内容はモデルで大学に通っている主人公、由利の交友関係や恋愛について。斬新なところはブランド名や場所の名前、バンドの名前などが数多く出てくるところとその注。

 どんな感じで注がでているのか、...引用する。*1

一年生の夏休みに、私はシドニーへ出かけた。向こうで、リトル・リバー・バンド(334)やらピーター・アレン(335)やらのレコードを、買い漁って帰ってきた。[...]キャロル・ベイヤー・セイガ—(336)も好きだと言った。よもや知っているまいと思っていた、ポール・パリッシュや(337)、ビル・ラバウンティ(338)まで[...]

 

334●リトル・リバーバンド オーストラリア出身のグループ

335●ピーター・アレン オーストラリア出身のシンガー=ソングライター。「ドント・クライ・アウト・ラウド」の作者。

336●キャロル・ベイヤー・セイガ— メリサ・マンチェスターとの共作も多い、女性のシンガー=ソングライター。

337●ポール・パリッシュ ジャクスン・ブラウンの弟、セヴェリン・ブラウンのアルバムに、アレンジ曲の提供で参加したこともある、あまり知られていないシンガー=ソングライター。

338●ビル・ラバウンティ 「ブルーアー・ザン・ブルー」を歌っていた、マイケル・ジョンソンとコンビで作った曲も多い、シンガー=ソングライター。

 

(p.138-141)                            

 こんな感じである。引用したところは洋楽のバンドのグループばかりで、疎いため、知らなかった。田中康夫は音楽に詳しいと思った。それ以外にも、もっと馴染みのある地名なども出てきた。

 

 田中康夫はブランドは、別に物質的ブランドばかりではなく、精神的ブランドも存在するという。例えば、芸術院の会員であること、一部上場会社の部長職にあることなど。(p.221) 田中康夫のいうように、精神(所属)にもブランドがあるとすれば、かなり身の回りにはブランドが存在する、と思った。あまりよくいわれないのは高いブランドにこだわるひとだろうか。しかし、ブランドは値段が高い安いというのとは関係なく、なにか特徴づけるものがブランドではないか、というふうに考える。パッと思い浮ぶのはすきな作家やすきな有名人。こういうものもブランドといえるのではないか。そういった意味では自分はかなりブランドがすきな人だというふうに思う。

 『なんとなく、クリスタル』では多くのブランドと注が出てきたが、それぞれの単語を知らない人にとっては苦痛だろうが、知っている人にとっては、知っている単語が連続して出てきたら、嬉しいのだと思う。

 

芥川龍之介の『葱』

 これは前読んで、記録として記事にしたことがあった。『なんとなく、クリスタル』を読んでいて、多くの単語を交えて書いている話として、芥川龍之介の『葱』を思い出した。ちくま文庫のもので16ページなのだが、そのなかで注釈は63こ出てくる。といっても芥川本人がつけたのか、ということは明らかではなく、もしかしたらちくまの編集者がつけたのかもしれない。が、いずれにせよ、多くの注釈がでてくる話である。内容は女給仕が二人出てきて、そのうちの一人のお君さんは趣味が多くある、そしてお君さんの恋についてかかれている。どんなふうに注が出てくるのか、以下引用、趣味の多いお君さんの二階の部屋の描写。

 その茶ぶ——机の上には、これも余り新しくない西洋綴の書物が並んでいる。「不如帰」(1)「藤村詩集」(2)「松井須磨子の一生」(3)「新朝顔日記」(4)「カルメン」(5)[...]最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方君(6)の元禄女で、その下に小さくなっているのは、ラファエル(7)のマドンナ(8)か何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海君(9)の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェン(10)へ滴るごとき秋波(11)を送っている。[...]

 

(1) 徳富蘆花作。明治31~32年国民新聞に連載。日清戦争を背景に片岡中将の愛嬢浪子と海軍少尉川島武男の悲劇を描き、当時評判になった小説。

(2) 島崎藤村の詩集。明治37年刊。「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」を合本して一巻としたもの。

(3) (1886~1919)。大正初期最も人気のあった新劇女優の先駆者。「ハムレット」のオフィリヤ、「人形の家」のノラ、「復活」のカチューシャなどに出演。大正8年一月、島村抱月の後を追って自殺した。「松井須磨子の一生」については未詳。

(4) 岡本綺堂の戯曲。一幕物。大正元年作。

(5) "Carmen"フランスの作家メリメの小説。1845年刊。スペインを背景に、ジプシイの女カルメンを女主人公とする熱狂的恋物語。

(6) (1878~1972)。日本画家。鏡花の小説の挿絵などを書き、のち、文展などに出品。大正・昭和における代表的美人画家。「元禄女」は江戸時代元禄期の美女を描いた傑作。

(7) S. Raffaello(1483~1520)。イタリアの画家。聖母画「マドンナ」は特に有名。

(8) Madonnna イエスの母。聖母マリア。

(9) (1871~1927)。明治・大正・昭和の大理石彫刻家。大正13年帝展審査員となる。

(10) L. v. Beethoven(1770~1827)。音楽家のベートーヴェン。その肖像画。

(11) いろめ。よこめ。

 

(p.256-257)

 

 ベートーヴェンや島崎藤村など、いくつかは分かる単語はあるが時代的に分からないものもあった。

 

 

 以上、単語がよく出てくる話を挙げた。 

 

 

 

今回読んだもの

田中康夫、『なんとなく、クリスタル』、新潮文庫、1985年

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

 

 

参考

芥川龍之介、『芥川龍之介全集3』、ちくま文庫、2017年(第18刷)

 

*1:本来は『なんとなく、クリスタル』では注の付け方は小文字で数字のみだった。が、そうするとスマホの表示の時に文字が崩れたため、()のなかに数字を入れた。