久米正雄著「風と月と」を読む

 カテゴリーでは今回の作品は久米正雄のものだが芥川のことも書かれていたので「芥川龍之介」のカテゴリーにもこの記事を入れる。

 

 前回読んだ「受験生の手記」はそこまで長い話と言うわけではないが今回の「風と月と」は手元にある二段組みの本で80頁以上あるので自分にとっては長い。しかし読みづらいというわけではない。

 この作品は1915年ごろに久米正雄が大学生で本郷に下宿しており、交友関係であったり、木曜会の様子であったり、雑誌「新思潮」のことなどが書かれている。書かれたのは1947年。かなり詳細に書かれており、また、出てくる人物も作り上げたというわけではおそらくないので、30年ほど後から書かれたというものの事実に近いものなのではないかと思う。

 以下芥川龍之介のことが書かれているところや、「新思潮」という雑誌のことを中心に内容を引用していく。

 

 

 

 

 

木曜会

 話の最初のほうである。岡田耕三(後に林原)という学者はそのころ私と同期の大学生で、夏目漱石の開く木曜会というものに出席したという話を私にきかせる。私は行ってみたくなり、芥川龍之介をさそって漱石の家を訪れることになる。

 

芥川の大学での座席

 松浦講師という人の「文學概論」というのがあったようでそこに出ている芥川について。 (引用は可能な限り書かれている漢字でしたいがパソコンで出てこない文字は改められた漢字や似たような漢字をつかう。)

 講堂に入って行くと、いつもの定まった位置に、もう芥川の来て坐っているのが、直ぐ發見された。そこは教壇に向つて、やや左寄りの中央で、前から一二列目の好い席であり、先生からも目立つし、又學生同士の注目の的となつて、よほど自信のある秀才でなければ、坐れないような位置だった。が、彼がそこを占めてゐると、私たちも其傍へ、惡びれず腰を下ろすのが、常であった。いかにもノートを取るには、絶好の位置であると共に、又先生に着目される一種の秀才戰術かもしれなかつた。芥川は必ずと云つてもいい位、その席を選び、そこが誰かに占領されてゐて、止むを得ない場合には、出来るだけ其處に近い場所を取つた。 (274頁)

 芥川は席の前の中央のほうに座っていたようだ。

 

 芥川は夏目漱石の「社会と自分」という本を読んでいた。それの内容を芥川が言ったところ。久米が「文学論的みたいなものかい?」とたずねた後。

 あんな學究的なもんぢやない。朝日新聞の需めに應じて、仕方なしに講演されたものらしいがね。いつか一高時代に聞いたらう、先生の講演を——ああ云ったものさ。 (275頁)

 

ローレンス先生

 この先生は以前紹介した芥川龍之介の「あの頃の自分の事」でも出てきた。芥川はその作品では「退屈だった」といっていたけれども本作では「熱心な聴講者」とある。出てはいたけれど退屈だったのかもしれない。

 たっぷり二時間、松浦先生の講義が終ると、十時からは、主任のローレンス教授の語音學の講座だった。そしてそれこそ、此の外人教師の最も得意とする所であり、英文科の基本科目に違ひなかつたが、私には又どうにも苦手の學科だつた。芥川と成瀬とは、その熱心な聽講者で、私も登録だけはして置いたのだが、それを棄權する事に心を決めてゐた。 (275頁)

 このあともローレンス先生は出てくるが死んだようでその葬式の様子なども書かれている。

 

アクタ

 「アクタ」とは芥川の愛称のようである。久米正雄が成瀬正一に「で、アクタはどうしたい?」とたずねる場面がある。

 

漱石に会う前に

 芥川が夏目漱石に会う前の様子が書かれている。

 彼は例に依って、キチンとした制服を着、床屋へ行つて来たばかりと見えて、白く澄んだ頬に、モミ上げの付け根の剃痕が、ほの蒼く匂つてゐた。そのためか、三角めいた眼は、黑々と深みを增し、薄い病的なほど冴えて見えた。——私も理髪に行くか、せめて銭湯にでも、行つて置けばよかつたと思ひ、面皰と不精髯に、少しザラつく頬を撫ぜた。彼は又、例に依って、四角い本を包んだ風呂敷を、小腋に抱へてゐた。——いつも書籍を抱へてゐないと、安心が出来ないと云った風だつた。 (281頁)

 芥川は漱石に会う前は服装をきちんと整え、床屋へいったばかりのように見えたようだ。

 

 久米正雄は芥川龍之介にさきにでてきた「社会と自分」をかりていたようだ。そして返そうとしたところ。以下は久米が「まだ半分しか読んでないんだろう?」と言った後の場面。

 「いや、すつかり讀んだよ。——實は、あれから歸りに、君に返して貰ふのも面倒だから、根津の本屋でもう一册買って、家へ歸つてすつかり讀んで了つたよ。だから是は君に遣るよ。」

 「いや、そいつは益々濟まなかつたな。——ぢやア濟まないから、その定價だけ僕に出させて吳れ。」

 私は彼の愛書癖と、何か潜んだ學問追求性と云ふやうなものに、壓倒されて頭を掻いた。 (281頁)

  芥川は貸した本が帰って来るのを待たず、根津で買っていたという事がかかれている。

 

漱石の家の先客

 滝田樗陰という雑誌「中央公論」の編集者が漱石に寄稿してくれるよう頼んだが漱石は朝日新聞への義理から、どうしても書かない、という。

 

漱石の家へ三人で

 いよいよ夏目漱石の早稲田にある家に岡田と久米と芥川が入って会話を交わすシーンである。漱石は今日初めて来た二人のうち、久米のことは(芝居を書いている)ということで知っていたようだ。しかし芥川のことはまだ知らないようだ。久米は今後どういった作品を書いていきたいのか言ったあとの場面。

「あの、……」 先生は芥川の名を一度では直ぐ憶えられずに、「君は?」

 「僕は、何を書いたらいいか、まだ解らないんですが、……尠くとも韻文の方だけは、どうやら斷念したやうです。」 

 「ふウむ。」先生は例の半白の慈眼とも慧眼とも取れる、眼を上げて、ちらりと芥川を見やつたが、 (287頁)

 

木曜会のメンバー

 他にも多くいるのだろうがこの話ででてきたのは内田百閒、三宅やす子、鈴木三重吉、小宮豊隆、赤木桁平などである。

 木曜会では、内田百閒が友人に頼まれて「ガリヴァー旅行記」の疑問点を漱石に聞いているところや近松秋江のことや、鈴木三重吉が漱石に今度小説の編集をしようとしているということなどがかかれてある。

 

同人誌「新思潮」第四次のメンバー

 「新思潮」とはまえも紹介したことがあるとおもうが、同人誌のことで、第四次のメンバーは菊池寛、久米正雄、成瀬正一、芥川龍之介、松岡譲。第三次も同人誌にこれらのメンバーは加わっていたようだが、漱石に読んでもらいたいという事もあり、またやろうとしている。以下はそのメンバーをどうするのかということについて書かれているところ。菊池寛は京都にいたようだ。

 成瀬正一の話したところから——

「それは丁度いい機會だ。少し位の金なら、僕がお袋にさう云つて、出させてもいいから。やらう! やらうよ! 僕も實は此間から、さう思つてゐたんだ。何か自由に、僕たちの創作や感想を、發表出来る機關が欲しいと。——」「すると、同人は此の四人でかい? それとも前の豊島や、山本たちを入れてかい?」

 松岡が、哲學者に似げなく、直ぐ具體的な問題に入つた。 「さあ、それはそこ迄、まだ考へてゐないんだがね。」「入れるんなら、京都の菊池を入れよう!」成瀬が云った。「彼奴は、俺を文學に引入れた元凶だ。だから彼だけは、どうしても入れて吳れ。——そして此の五人だけで、やらうぢやないか! 外の奴はもう必要無いよ。」「さうだ。此の五人だけの方が、却つて純粋でいいかも知れんね。」と芥川も、相槌を打つた。 「さうだよ、澤山だよ。あんまり變なの、入れるとブチ壊れるよ。」と續いて松岡。 「ぢやア、取り敢へずさう云う事にして、改めて相談會を開かう!」 (306頁)

 

芥川龍之介「鼻」

 同人は決まり、さっそく集まってお互いの作品を批評し合ったようだ。久米正雄は「父の死」を、松岡は「赤頭巾」、成瀬は「骨晒し」、菊池は「坂田藤十郎の恋」、芥川は「鼻」をもってきて、それぞれ批評し合っている。芥川龍之介が「鼻」を取り出す様子。

 「さア、それぢやア今度は俺の番だな。」 芥川はさう云って、傍に置いてあった本包の間から、其頃赤門前の文房具屋、松屋で作った原稿紙の、半ペラな奴に書いた、凡そ三四十枚程のものを、無雑作に取り出した。 「俺のは、『鼻』と題する短いものだがね。題材は今昔物語から取った。——皆の作品の中で、ひよつとすると、俺のが一番短いかも知れない。半ペラで、三十七枚だから、四百字詰めにして十八枚と少し……初めから、讀者に餘り迷惑を掛けたくないからね。」 彼は先づ、そんな風に註を入れた。 (320頁)

 このあと芥川は「鼻」を読みはじめる。これを読んだまわりの反応はよかったが、久米正雄は嫉妬からけちをつけたくなった。

 「鼻」には最後「長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。」という場面があるがそこについて久米が言ったところ——

 「それからもう一つ。」 私は圖に乗って云った。さう云ふ細かい技術上の事では、同人たちの間に、多少の信頼を受けてゐるのを、自信してゐる私だつた。「お終ひの止の文句の、『秋風』はどうかな。銀杏が落ちて塔の屋根に霜が降りて『秋風』はないだらう。」「成程ね。だがそれかと云って『寒風』ぢやないな。……『朝風』か。いや、他の風ぢやア、どうも不可んな。矢つ張り此處は、どうしても秋風にぶらつかせるのでなくちやア。たとひ歳時記的にどうあらうと。……まア是は秋風で我慢して吳れ。讀者は、きっと君みたいに、そんな季語的な敏感さは、持つてゐないに定つてるから。」 (323頁)

 

菊池寛「坂田藤十郎の恋」

 これは「あの頃の自分の事」でもそうだが、「坂田藤十郎の恋」について周りの反応は良くなく、本人欠席でいろいろと言われた。そして成瀬に手紙をかいてもらって(ここは「あの頃の自分の事」では「久米が手紙を書いた」というふうに書いてあったと思うが。どちらかが違うのか。)書きなおすことにしてもらう。そして菊池はのちに「身投救助業」という作品を送ってきた。これは反応はよかった。

 

 芥川の「あの頃の自分の事」では「坂田藤十郎の恋」に注があり見ると、以下のようにかいてある。

 「新思潮」で没にされ、大正八年四月、小説「藤十郎の恋」として、「大阪毎日」に発表。のち戯曲に脚色した。 (芥川龍之介、「あの頃の自分の事」 (『芥川龍之介全集2』より)、ちくま文庫、1992年、387頁)

 

校正刷を読む、そして校正する

 校正のところでかかれているところがあった。

 校正刷は約束通り、それから一日經つと、印刷所から次ぎ次ぎに届けられて来た。

 ゴヂック文字で只誌名と號數を打つただけの、簡素な扉に續いて、直ぐ成瀬の「骨晒し」が始まった。十六頁分を一と綴したその校正は、前夜神田で投函されて、翌日早く本郷の發行所へ着いた。そしてそれは直ぐ、詰めかけてゐる作者に手渡されて、即座に校正された。

 「——いいかい、各々三度づつは校正刷を讀み直すんだぜ、三度讀み返しやア、大抵間違ひは氣が付くだらうから。」 私は多少の経験者で、そんな風に云ひ乍ら成瀬には成瀬の分だけ引きちぎり、續いて芥川には芥川の分を裂いて渡した。さうして、各人が直し終ると、更に私か松岡かが、もう一度目を通す事にした。

 作品掲載の順序は、一番先が成瀬で、次が芥川、三番目の中軸が菊池で、續いて松岡、そして最後が私、と云ふ順になつてゐた。で校正の先後も、三日に亙って、その通りに忙しかつた。京都に居る菊池の分は、私と松岡とが代り合つてした。そして結局、私は自然と、全部の校正刷にすつかり目を通して了つた。

 初め、自分の作品が、活字になつて現れた時は、何だか原稿の時よりは、みんなウマク見えるやうな氣がした。が、もう一度讀み返すと、今度はアラがハッキリして、恐ろしいやうだつた。そして三度讀み返すと、やつと仕方がないと思ひ返され、目を瞑つて、放り出すやうな心持で作品に對し得た。それと同様に、他の同人の作品も、初めはみんな傑作に見えた。が、校正が進むと、そのいい所や惡い疵が、鏡に映るやうに分る氣がした。殊に芥川の「鼻」は、一字一句をもゆるがせにしない、その整然たる文脈と、キチンと纏った首尾とで、校正すればする程、底光りを増して来るやうだつた。小まつちやくれてゐるやうな、その作者の才氣も、丹念にその短い句讀の中に、澁く疊み込まれて、反感がだんだん消えて行つた。それに比べて菊池の「身投救助業」と云ふのも、一種の異色ある主題と、簡明な描寫で、なかなか面白いと思はれたが、どうも書きつ放しのやうな所があつて、嚴密な校正に堪へなかつた。結局、此の新思潮の初號では、芥川の「鼻」にオチを取られるのではないかな、——漠然と、そんな豫感が、私の競争心の上へ影を落した。

 校正刷は、印刷所が小さいため、隨分「下駄を穿いて」ゐたが、叮嚀にして吳れたので、取り敢へずお届けすると、印刷所からの使があつた。——成程指を折つて見ると、それが約束の二十五日だつた。 (333頁)

 

 

雑誌「新思潮」のできあがり 

 雑誌「新思潮」ができあがったという場面があった。

 「おウい、早く来い! 雑誌が出来上つて来ているぞ!」「さうか!」 彼らもさう答へると、靴をぬぎ棄てて上がつて来るなり、物も云はず、そこに積み重ねてあつた新思潮を一册ずつ取上げた。私は其時までに、もう何回となく、雑誌を見廻してゐたので、彼等がどんな風に、それに讀み入るかを傍からぢつと見守る餘裕があつた。 成瀬は、表紙をちらと見て、扉をかへすと、いきなり自分の作品を讀み始めた。それは併し位置が巻頭だつたからかも知れなかつた。芥川は表紙をぢつと眺め、鳥渡首を傾げて、それから内容をパラパラと繰つた後、先づ一番最後の、六號雑記を微笑を浮べて讀み了ると、それから徐に自分の「鼻」の、載つてゐる所を開いて、ぢつと猛々しく目を据ゑ始めた。そこに微笑の影はなく、寧ろしかつめらしい皺が、眉間に寄せられてゐた。——私は静に、何の氣もない風に、彼らの讀み了るのを待つた。恐らくは彼等の人生で、それ以前にもそれ以後にも、嘗て閲した事のない、最も幸福な瞬間を、出来るだけ邪魔すまいと思つて……。 やがて、稍早く讀み終わつた芥川が、雑誌を閉じて、表紙を改めて見やり乍ら、「——少し蕉難だつたかな?」と呟くやうに云つた。 (335-336頁)

 

書店で雑誌「新思潮」をみつける

 郁文堂という書店に「新思潮」はおかれたようだ。久米と松岡がそこに行く場面——

 二人は、やがて郁文堂と云ふ書店の前まで来た。——松岡も私も、實は云わず語らずの間に、此處が目的だつたのだ。

 私たちは黙つたまま、足を吸ひ込まれるやうに、その店頭に近づいた。

 其頃は、一日發行の雑誌が、大概二十五日には出揃つたので、それら一流の大綜合雑誌がまだ賣れ残つた婦人雑誌と共に、新らしく着いたばかりか、うづたかく積み重ねられてあつた。二人の眼は、その新刊雑誌の置き場の、小さな雑誌類が毎も置いてある、奥の隅のあたりへ、一緒に引きつけられて行つた。と、ある! あつた! 私は目を睜った、其の一番隅つこではあるが正しく他の雑誌の上層へ、墨黑々とゴヂックで表題を記した新思潮が、約二千册ほど薄い束を見せて重ねられてあるではないか! (337頁)

 

漱石から芥川への手紙

 漱石に「新思潮」を送ったあと、芥川のもとへ漱石からの手紙が来ていた。しかし成瀬にそのことを伝えるのは芥川は憚っているようで、久米にその手紙を見せに来た場面。

 「——話つて、一體、何なんだい?」 私は芥川が、毎もより口重なのを感じると三度び又氣軽に、さう促した。 「話つて云ふのは、實は、」彼はようやく口を切つた。 「僕、昨日、夏目先生から、突然手紙を頂いたでね。——かう云ふ手紙なんだが、一つ、君にも讀んで貰ひたいんだ。」

 さう云つて彼は、制服の胸の金釦を外すと、内懐ろを探つて、一通の鼠色の封筒を取り出した。——それは、充分叮嚀に蔵はれてゐたに相違いないが、別な紙に包んである譯ではないので、彼の體温のぬくもり、又彼の胸の中で揉まれて、少し皺くちやになつてゐた。何度も、取り出して讀んだのかも知れない。 「ふウむ。……どれ。」 私は、何かハッと息詰る思ひで、それを受取つた。——さう云へば何だか、内心、半ば羨やみ、半ば怖れて考へてゐたやうな氣がした。矢つ張り、さうだつたか! 矢つ張り芥川に! 夏目先生が直接手紙を。……

 私は、突如として内心に湧き上つた、羨望と嫉妬に手が震へるのを、やっと堪へ乍ら、中の手紙を引出した。その巻紙には、墨で、優婉な字で、かう書かれてあるのが、熱した私の眼に讀まれた。 「拝啓新思潮のあなたのものと、久米君のものと、成瀬君のものを讀んで見ました。あなたのものは、大變面白いと思います。落着があつて、巫山戲てゐなくつて、自然其儘の可笑味が、おつとり出てゐる所に、上品な趣きがあります。それから材料が、非常に新らしいのが眼につきます。文章も要領を得て、よく整つてゐるのに、敬服しました。ああ云ふものを、是から二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。併し『鼻』だけでは、恐らく多數の人の眼に触れないでせう。触れても、みんなが黙過するでせう。そんな事に頓着しないで、ずんずんお進みさい。群衆は眼中に置かない方が身體の藥です。

 久米君のも面白かつた。殊に事實だと云ふ話を聴いてゐたから、猶の事興味がありました。併し書き方や其他の點になると、あなたの方が申分なく行つてゐると思ひます。成瀬君のものは、失禮ながら三人の中で一番劣ります。是は當人も、巻末で自白してゐるから、蛇足ですが感じた通りを、其儘つけ加へて置きます。以上。」 (342頁)

  久米はそれを読んだのもあり嫉妬したようだ。成瀬のものは褒められていない、だから成瀬にはその手紙を見せたがらないようだ。

 

芥川への手紙を雑誌「新思潮」に載せようか……

 漱石からの手紙は芥川を褒めていた。これを「新思潮」に公表できないか、そうすれば間違いなく芥川は文壇に出ていけるのだが……というシーンがある。次の引用は松岡の話しているところ。

 「そして、芥川が認められれば、續いて誰かが、又必ず認められるに相違いない。何故と云ふと、僕はかう思ふんだよ。或る無名の文學グループがあつて、其中の一人が、認められるとすると、その認められた奴と、尠くとも對等に附き合ひのあ出来た奴は、いづれ又必ずいつか、實力を認めらるに違ひないんだ。だから、僕らの中からでも、先づさし當り、芥川一人が出れば、續いて……例へば君、それから成瀬、と云った風に、認められるに違ひない。一例を擧げれば、白樺の同人にしてもだね。志賀直哉が眞つ先に認められて、直ぐ里見弴が續き、それで済んだかと思ふと、今度は武者が高く評價されて、續いて長與が出る。と云ったやうなものだ。そして、僕に云わせると、その順で後になればなる程、大物になつて行く。だから、白樺でも、案外後に残つてゐる、有島武郎なんて人が、重きをなさないとは限らない。」 (344頁)

 

参考

今回読んだもの 久米正雄、「風と月と」 (『日本現代文學全集 57 菊池寛・久米正雄集』より)、講談社、1967年