芥川龍之介の作品を読み漁る——「蜜柑」、「沼地」、「疑惑」、「じゅりあの・吉助」

芥川龍之介の作品は、ほとんど読んだことがない。キリスト教のものが多かったり、何かの物語の上に成るものが多いというイメージがあったので、敬遠していたところがあった。しかし、読んでみることに。今回読んだのは、ちくま文庫から出ている芥川龍之介全集というもの。といっても、全部読む気はなく、なんとなく面白かったものを載せていく……

「蜜柑」

あらすじ 

ある曇った日に、私が横須賀線発ー東京行きの二等客車(芥川は大正5年12月頃から8年三月まで横須賀海軍機関学校の教師をしていたそう)に乗っていると、そこには田舎者の小娘がいた。しかも、三等の赤切符を大事そうに握っていた。私はこの女を好まない。服装が不潔だし、二等と三等の区別もつかないし、顔も下品だし。

やがてその女は重い硝子戸を開けた。すると、空からばらばらと蜜柑が外に立つ三人の男へ降ってきた。刹那に私は了解した。この小娘は、これから奉公先へ行こうとしており、外に立つ男たちは弟のようで、見送りにきており、それの労を報いるために、蜜柑を投げたようだ。

印象的だった表現

田舎者の小娘と平凡な記事を目にし—これが象徴でなくて何であろう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であろう。(p33)

硝子戸がなかなか上がらないシーンー重い硝子戸は中々思うように上がらないらしい。あの皸だらけの頬はいよいよ赤くなって、時々鼻をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しょに、せわしなく耳へはいって来る。(p34)

 

「沼地」

あらすじ

ある雨の降る日の午後、私がある絵画展覧会場の一室で小さな油絵を一枚発見した。それは、「沼地」とかいうもので、誰が描いたか知らない。この画家は、おう鬱たる草木を描きながら、一刷毛も緑の色を使っていない。蘆や白楊や無花果はどれも濁った黄色だった。私のそばには、新聞の美術記者がおり、私に「大変感心していますね」といってきた。私は、「傑作です」と返した。記者によると、この絵の作者はもう死んでいるという——しかも、きちがいで。私は「傑作です」と、記者の顔をまともに見つめ、繰り返した。

感想

自分が好きな色が緑なので、草木を緑ではなく、黄色で書いた絵というものにはそそられるものがあった。4頁しかないが、印象に残る作品。

印象的だった表現

絵の描写ーしかしその画の中に恐しい力が潜んでいることは、見ているに従って分ってきた。殊に前景の土のごときは、そこを踏む時の足の心もちまでもまざまざと感じさせるほど、それほど的確に描いてあった。踏むとぶすりと音をさせて踝が隠れるような、滑な汚泥の心もちである。(p38)

 

「疑惑」

あらすじ

今ではもう十年あまり以前になるが、ある年の春私は実践倫理学の講義を依頼されて、一週間ばかり、岐阜県の大垣町へ滞在することになった。そこの滞在中の出来事である——書院造の八畳、日当たりこそ悪いが落ち着いた座敷であり、私の後ろにある床の間には、花も活けてない青銅の瓶と、その上には怪しげな楊柳観音の軸があった。するとある夜、私が予定の講演日数が将に終わろうとしているころ、漫然と書見にふけっていると、四十恰好の男が一人、端然として座っていた。その男は中村玄道と申し、左の手の指が一本かけていた。中村は、善悪を倫理学の先生に聞きたいというということで来たようだ。というのも、大地震の際、中村は妻を殺してしまったのではないかとおもっているからである。しかし、その後、n家の二番娘との縁談も進み、式を挙げている際中、白状したい気になり、中村は『私は人殺しです。極重悪の罪人です』と叫んだようだ。それを聞き、私はただ黙然と坐っているより他なかった。

感想

叫ぶところを二重括弧にしているのが独特だと思った。春寒という言葉の響きがなんとなくいい。

 

「じゅりあの・吉助」

あらすじ

じゅりあの・吉助(じゅりあのは吉助のクリスチャン・ネーム)は肥前国彼杵郡浦上村の産である。早く父母にわかれたので、幼少の時から、土地の乙名三郎治というものの下男になった。吉助は三郎治の一人娘の兼という女に恋をした。彼はそれで馬鹿にされてしまい、悶々として、三郎治の家を出ていったが、三年ほどたつと、乞食のような姿で浦上村に戻ってきた。こうして、十二年たった。しかし、ある時、朋輩は吉助が不審なことをしているのに気が付いた。——それは十字を切て、祈りをあげることだった。そのため、吉助を牢屋に入れることにした。奉公は吉助に尋ねた。「その方どもの宗門神は何と申すぞ。」「べれん(ポルトガル語。ユダヤの国ベツレヘム、すなわちキリストの降誕地。)の国の御若君、えす・きりすと様、並に隣国のご息女、さんた・まりあ様でござる。」……。その後も、奉公が吉助に質問したが、その答えはどれも変わったものだったが、吉助は態度を崩すことは無かった。次第に吉助は天下の大法どおり、磔刑に処されることになった。彼の死骸からは、一本の白い百合の花が、不思議にももみずみずしく咲き出ていた。これが長崎著聞集、公教遺事、瓊浦把燭談等(三つとも芥川の偽作書名)に散見する、じゅりあの・吉助の一生である。そうしてまた日本の殉教者中、最も私の愛している、神聖な愚人の一生である。

 

参考

芥川龍之介、2017年、『芥川龍之介全集3』、ちくま文庫