芥川龍之介の作品を読み漁る——「手巾」、「煙草と悪魔」

「手巾」

長谷川先生(新渡戸稲造をモデルにしたと思われる)の元へ最近亡くなってしまった息子の母親の西山篤子が、息子をお見舞いをしてくれたことのお礼を言いに来た。この母親は死んだ息子の話を日常茶飯事のようにするので、泣かないなと長谷川先生は不思議がっていたがその母親は次第に涙し手巾を裂けんばかりに固く握っており……それを見て長谷川先生は感動し、これこそ日本の女の武士道だ、丁度いま寄稿を依頼されている雑誌に書こう、と思ったが、ふと読みかけていたストリントベルグの作劇術の本に<微笑みながら手巾を二つに裂く>という型があるところを見つけ不快になったという話。

道徳的にやっていると思っていたことが実は演じてやっていたことが分かるということはよくあることだなと思った。

 

「煙草と悪魔」

この作品では書き手が悪魔が煙草を日本に持ってきたという伝説を信じ、その伝説を書いたもの。天文十八年、悪魔はフランシスコザビエルに伴く伊留満(神父の次に位する宣教師)として日本へやってきた。まだ来たばかりで宣教も進んでいなかったため煙草の栽培をやることにした。ある時、牛商人が悪魔が栽培をしているのを見かけ、何の花かと聞いたが悪魔はこれは教えるわけにはいかないといった。が、牛商人はどうしても教えてほしいというので、三日間あげるからその間に他の人に聞いてもいいので当ててみろ、といい当てたらこの花を全部あげよう、しかし当てられなかったらお前の魂と体をもらおうといった。牛商人は作戦をあれこれ考え…悪魔が夜寝ている間に牛を引き連れ煙草畑を荒らした、すると悪魔は「この畜生、何だって、己の煙草畑を荒らすのだ。」といった、うっかりと。そのおかげで牛商人はこの花が煙草というものだと分かり、悪魔に煙草だと言い、全部自分のものにした。しかしこの作品の書き手はこれよりもっと深い意味があるのではないか、つまり悪魔は牛商人の体と魂を手にすることはできなかったが日本全国に煙草を普及させることに成功したのではないかと考えたという話。

この作品では牛商人が勝った、悪魔が負けたのだと見えて、牛商人を人間というくくりに入れた場合、悪魔が負けているとは言えないのではないかというもの。悪魔との取引は星新一の作品でもよく出てくる。今回は魂を持っていかれずに済んだものを二つ紹介——「はじめての例」では老人が悪魔にとって初めての願いをしたので老人は魂を取られずに済んだ、また「とりひき」では悪魔が人間だと思っていたものが死ぬときに魂と悪魔をもらうと言ったがそれはロボットで魂などない。

 

芥川龍之介、「芥川龍之介全集1」、ちくま文庫、1992年