自分が撮りそうな写真がある

自分は写真に詳しいわけではないのだけど、そして上手くはないけども、写真を撮っておきたくなるときがある。スマホで。主に風景や建築、ビルなど。

 

写真を撮ったあと、他の人だったら自分の行ったそこらへんの場所のどういうとこに注目するのか、というのが気になってフリッカーなどでその場所の写真を見てみることが最近たまにある。写真の撮り方はほんとうに人それぞれであり、同じ風景、建物でもどこの部分を強調するのかは違う。どこを脇役にしたくて、どこを大きめにもってきたいのかなど。他人の撮った写真をみて、それのどこが気に入ったからその写真を撮ったのか、考えることもある。また、それを撮った意図は何だったのか写真をみて、予想してみるのは楽しい(答えは撮った当人に聞かないとわからないが)。あとはどんな気分で撮ったんだろうか、とか。

 

最近思うのが、自分の撮った写真(または撮った写真が手元にない場合は撮った写真を思い返して)ともう一つ他人の写真を見比べて、この他人の写真は自分が撮りそうだなと、思うときがけっこうあるということだ。それらは少し撮りそうだ、と思うものであるけど。自分の撮った写真とぼんやりした感じが似ている、雰囲気が似てる、色合いが似てるとか、意図が多分同じなんだろう、こことそこを同時に撮りたいというのは自分と同じなんだろう、強調したいものも自分とおんなじなんだろうとか。反対に、この角度では絶対撮らない、そこはそんなに見上げたいとは思わないよ、ここでは立ち止まらない、ここは通り過ぎて別を撮る、などを思うときもある。

 

なかには、自分の撮りそうな写真と完全に近いほど同じようなことがある。けれどもそう思うことはごくまれだ。自分のすごく撮りそうな写真を見たとき、なんとも言えぬ気持ちになる。不思議な気持ちというか。追い詰められた気持ちというか。発見してはいけなかったのだという気持ちも多少ある。もちろん自分は撮っていないのだけど、「あれ、これ自分が撮ったのでは?」、ということや、「この場所に自分は居たんではないか。そして撮ったのではないか」、「いつ撮ったんだっけ」と思うことがごくまれにある。

なぜか、自分はそういう自分がすごく撮りそうな写真を探し求めてる。それを発見すると不思議に思う。なかなか居ないんだけど、すごく気があう人に会うのと似ているような。

 

感覚、その時の感情なのか、価値観や興味や考え方なのか、どういう要因が働いてひとつの写真となるのだろう。すごく気になっている。

自分と同じような写真を撮る人は性格や考え方も似てたりするのだろうか、あるいは偶然同じような写真だったのか。わからない。

 

これからも自分が撮りそうな写真を見つけていきたい。 

 

※「写真の撮り方へすごくこだわりがある」みたいになってしまったけどそういうことを言いたかったんじゃない。

デュルケムの『自殺論』についての本を読んだ

・はじめに

自分は自殺をしたいと最近考えることが多くなった。それで、自殺に関する本も読んでいきたいと思っている。自殺に関する本を読むと自殺をしたくなるのか、反対に自殺をしたくならなくなるのか、それはわからない。でも興味があるため読んでいきたい。最初に自殺に関する本を読んだのは中学生くらいの頃だと思う。自分の持っている本ではないのだが、家にあって、こそこそと読んでいた。内容はそこまで覚えていないのだけど、自殺のやり方がいろいろ書いてある本だったと思う。その本はどこかいってしまったので今調べたのだが、多分『完全自殺マニュアル』という本だったと思う。そのころはそんなに本を読んでいたわけではなかったので、「こんな本があっていいものなのか」ということを思っていた。ショックを受けた。今は本を読むようになったので、そういう本があってもいい、ということはわかるのだけど。その本もなくなったので、また、読めたら紹介したい。今回はデュルケム(Émile Durkheim、1858年4月15日 - 1917年11月15日。フランスの社会学者)の『自殺論』についての本だ。

『デュルケム「自殺論」を読む』という岩波セミナーブックスの本で、作者の宮島喬はデュルケムの『自殺論』(中公文庫)の翻訳をした人だ。前も岩波セミナーブックスはデカルトの時に読んだことがあって、わかりやすかったので今回も読んだ。『自殺論』を読んでみようと、最初は思ったのだが、文庫本ではあるが600ページ以上あって、取っつきにくかったため、それについての本を読むことにした。講義調で書いてあって丁寧だった。自殺の種類やデュルケムの研究方法、自殺の定義、なぜデュルケムが研究するようになったのかということなどが書かれていた。

 

 

・自殺の定義と自殺の3種類

まずは自殺の定義について書いてあるところがあったのでそこを紹介する。そのあと、自殺の種類についてがこの本でよく書かれていたことだと思ったので、これについて紹介する。①集団本位的自殺と②自己本位的自殺と③アノミー的自殺の3種類があるようだ。ほかにも一つ、注釈のみに書かれた宿命的自殺というのもあるようだが、それは注釈のみに書かれているのならいいやと思って省くことにした。

 

自殺の定義=

「死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名づける」(『自殺論』、22ページにあるようだ)  

 

自殺の定義についての注釈

※予知していた-死を覚悟の上で

※積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果-崖から飛び降りるとか、ピストルをこめかみに当てるという積極的な行為をしなくて、ただじっとなにも食べないで坐っているとか、同じ信念をもちつつけることから生じる死も、自殺と名づけようとした。

 

・自殺の3種類

①集団本位的自殺

伝統的社会にみられる。社会の支配的な規範が、個人に対して死を命じることがある、あるいは、暗黙のうちに死を推奨している。

例として三つ。

1. 老年の域に達した者、あるいは病に冒された者の自殺

2. 夫の死のあとを追う妻の自殺

3. 首長の死にともなう臣下や家来の自殺

 

伝統的社会ではなく、近代の自由の解放によってもたらされた自殺は以下の二つがある。

 

②自己本位的自殺

まとまりがなくなって個人的になって、自立はできたものの、個人が集団に依存しなくなり自殺する。

 

多くの成員を抱えた家族よりも未婚者、子供のいない夫婦、やもめなどの自殺が多い。

これと似たように、また、プロテスタントはカトリックよりも自殺が多い。なぜかというと、プロテスタントは自由検討、すなわち各人が聖書を手にして信仰を自分で解釈している。それの結果、固有の精神構造、社会構造が作られた、これは同質的な、集合的な信仰が広く共有されていて、それがさまざまな儀礼と結びつくカトリックの社会とは違う。

 

例: ボーイフレンドと喧嘩をし孤独感を経験し、自殺。他にも例えば友人ができず自殺、家庭崩壊で自殺など。

(ボーイフレンドの方はデュルケムがそういう例として挙げているわけではなく、今回読んだ宮島の本に載っていたもので、もとはマキャロッチとフィリップの書いた『自殺行動の深層』に書いてあるようだ。)

 

③アノミー的自殺

アノミー=anomieの元は「アノモス」というギリシア語である。「ノモスがない状態」という意味で、ノモスとは規範や法を表す。つまり、法のない状態、あるいは規範のない状態を表す。アノミー的自殺とは人々の欲望が異常に肥大化し、その欲望を満たすことができず、欲求不満にとらわれ、その不満は永久に止むことは無い。その挙句、焦燥、さらに、幻滅が生まれる、そして人々は自殺に走りやすくなる、これは主に産業社会とのかかわりで生じてきたものである。

 

個人の欲望とは関係があるのだけれども、はたしてなにかが欲しいという欲望が単に満たされないからといって、それだけで自殺をしてしまうということは考えにくいのだという。小学生がラジカセが欲しかったのだが、親が駄目だ、と言ったがゆえに自殺をしたという典型的なケースもあるが。というより、当人がある強い願望を抱いていて、その願望を満たすことが、あるべき自己の実現につながっていると感じるのだけど、その願望が満たされないときなどに自殺と結びつき得るのだという。

また、欲求の不充足がイコール自分はこういうもの(=自己イメージ)であるはずだと思っていたという自己の否定として経験され、そのとき、自分は駄目な人間だ、堕落者だ、役立たずだという感情がつのって自殺の引き金になることもある。

 

例: 

その1

「また大成功に酔っているとき、ふと耳にした野次の口笛のため、また多少手きびしい批評を受けたため、あるいは人気が頭うちになったために自殺をはかる、あの芸人たちすべての例である」

(これは『自殺論』に出ている文のようであるが、この自殺のケースを挙げているのは、1865年のブリエール・ド・ボアモンというフランスの自殺研究者の『自殺と自殺狂』という本で、デュルケムの著作にはこの研究者の本をしばしば利用しているようだ。)

それで、この引用だけだとわかりにくいと思うが、もう少し書いてあった。ここでは芸人は世間より高く評価され、ほめそやされ、名優だと言われてきて、自分自身もそういう自己イメージをもつようになったのだが、ある日、この芸人の演技が終わったら、喝采ではなく、野次が飛んできて、それが自己イメージの崩壊へとつながるのだという。それで自殺した。

 

もう一つ例として挙げる。

 

その2

成功した広告代理業者の社長の息子で有能とされており、息子自身もより高い位置に昇進したいと思っていた広告代理業者がいたが、その希望はかなえられなかった。それで自殺してしまった。

(アンソニー・ギデンズというイギリスの社会学者の書いた論文「自殺の一理論」が他の研究より引用したようなのだが、それがこの本で書かれていた。この例はその引用したところのようだ。)

ここでは、自己のイメージ(有能であるとも言われていて、それで自身でも有能であると信じていた)、あるいは理想(欲望)と、会社のなかでの自分への評価のギャップから自殺へと走ったと考えられるようだ。

 

 

自分は、

②自己本位的自殺と③アノミー的自殺の違いがわかりにくいと読んでいる最中思っていた。けれども、それぞれの心の状態についても書いてあったのでまとめ的な意味も兼ねてそれも紹介する。

自己本位主義の心の状態-社会的孤立、内面への自己集中、孤独感、他者や集団とのつながりが失われている喪失感を感じる。

アノミーの心の状態-自己自身で統御できない、無限化した欲望に駆り立てられながら、焦燥感・不満感・幻滅感にとらわれている。自らコントロールできない欲望に駆り立てられ、自己疎隔を引き起こしてしまう。

 

 

・その他・感想 

現代社会ではある程度、自殺は起こるのは当たり前だ、ということをデュルケムは言っているらしく、そうなのかと思った。

 

自分が自殺するなら、自己本位的自殺とアノミー的自殺の複合型になると思った。信じていた他人と関係を絶つ・関係がなくなっていくのは怖くて死にたくなるだろうし、また、自分は理想を持ちがちなところはある(欲望をいっぱいもっている。なおかつ現実と理想との間にギャップがある)。もしそれが重要でない理想ではなく、すごく重要な理想であればどうなるのかわからない。この先どういうときに自殺をするのかわからないけど、自己本位的とアノミー的、両方を兼ね合わせた自殺をするのではないだろうか。

 

デュルケムは、人々が自殺をする際に用いる手段というのは重要ではないということを言ったようだ。けれども宮島はそれも重要ではないかということを言っている。自己本位的な自殺というのはしばしば対人関係的な理由で起こる。だから、死にたいというより、だれかに他人に訴えたいという願望から、自殺未遂を引き起こしやすいのだという。それで、自殺未遂を研究している人が指摘するらしいのだが、そういうなにか他人に訴えたいという願望をもっている場合、一番多く自殺に使われるのは薬を飲むというやり方だという。しかもすこしずつ飲み、電話をかけるのだという。また、人けのない所で飛び降りるのでなく、たくさんの通行人が見ているところで手首を切ったりするようだ。または人がいないところではなく、盛り場の高層ビルで自殺をしようとするようだ。ここも今後注目していくところかなと思った。自分も多分自殺するなら、誰かに訴えたいと思って、注目されたいと思って、自殺するのだと思う。孤独で自殺するというのは、なんか難しい気がする。世間からの注目がほしいというか...。自分は孤独な人間なので(だからこそ注目されたいと思うときがあるというか...)。だからそういう意味では、自己本位的自殺に近い自殺(あるいは未遂で終わる)を取るのだろうか。

 

なんか3種類(宿命的自殺を含めれば4種類)で、そのうち近代に書いてあるのは、2種類で、そこまで詳しく分けたのではないのか...ということは感じた。でも、デュルケムの時代より昔の自殺はどういう特徴があるのか、ということであったり、2種類であっても分類したのはすごいと思った。手元にデュルケムの『自殺論』もあって、地図や綿密なデータもついていて、よくそこまで調べたなあと思った。本編の『自殺論』も読む機会があればまた紹介したい。

 

 

 ・今回読んだもの

 

ブコウスキーの"Factotum"を読んだ

・内容

書かれている時代は第二次世界大戦の際中、また、終わりである。Post Officeと同じ名前である主人公のヘンリー・チナスキーは精神科医に向いていないということを言われたこともあり、兵役にはつかないでいる。そして本の題名のFactotum、「雑用係」という通り様々な仕事を転々としている、本当はライターになりたく、雑誌社に自分の書いた小説を送ったのだが、なれず、自働車部品の倉庫や照明器具の会社で働いたり、清掃員、美術品供給店の積み荷係などをしていた。舞台は主にルイジアナ州のニューオーリンズ 、カリフォルニア州のロサンゼルス、フロリダ州のマイアミであった。

 

 

・感想、面白かったところ

カリフォルニア州で仕事を探し回るという点で前に読んだエリック・ホッファーの自伝を思い出した。カリフォルニア州のスキッド・ロウなど、エリック・ホッファーの本に出てきた場所もこの本に出てきた。二日酔いや仕事に遅れる、たくさんの女との交わり、生活などのことは前に読んだPost Officeとも似ていると思った。けれども、違いは、FactotumPost Officeに比べて、郵便局を中心に書いているわけではなく、やる仕事が広範囲にわたり、出てくる女も多かったように感じた。就く仕事が多いという事はしてもすぐに仕事をやめてしまうということのわけだが、そして勤務態度も良くないのだが、何度も就職が繰り返されていても、ユーモアも混じっており、「またか」と思っても、どんなふうに次はやめるのかということを期待するところもあり、飽きることはなかった。

 

お酒はよく出てきたという印象があった。それはブコウスキーのインタビューの動画でもそうだった。ブコウスキーはよくお酒という言葉を口にしていた。

この本では二日酔いをするのもそうだが、ドライバーの見ていない隙を確認してお酒を飲む、お金はどんどんなくなって家賃支払いが滞っていてもお酒のボトルはあるといったことがでてきた。こういうのもあった、引用する。

 

  “Do you have a cigarette?”

  “Now you’ve been jailed. A thing like this could kill your mother.”

  We passed some cheap bars on lower Broadway.

  “Let’s go in and catch a drink.”

  “What? You mean you’d dare drink right after getting out of jail for intoxication?”

  "That’s when you need a drink the most.”

  “Don’t you ever tell your mother you wanted a drink after getting out of jail,” he warned me. 

(p.33,34)

 

 

ここはチナスキーが公共で酔っぱらった、交通妨害をしたということで刑務所に捕まり父親が保釈金を支払い、チナスキーが刑務所から出てきた後のシーンである。チナスキーは「タバコやお酒がほしい」、父親は「酒を飲んで刑務所に捕まってすぐにそんなことを言うのか」、チナスキーは「刑務所から出てきたときに一番酒を飲みたくなるのだ」、父親は「そういうことは母親には言わないで」というようなことを言っている。

たしかに父親の言う通り、お酒を飲んで捕まって刑務所から出てきてすぐにお酒を飲みたいというのはどうなのかと思った。そういうふうに思うかもしれないけど。

 

 

 

こういう表現があって面白いなと思った。

 

  I was assigned to the loading dock. That loading dock had style: for each truck that came in there were ten guys to unload it when it only took two at the most. I wore my best clothes. I never touched anything.

  We unloaded (they unloaded) everything that came into the hotel and most of it was foodstuffs.

(p.191, 192)

 

ここではトラックから来た荷物を10人ほどで、荷降ろすのだけど、チナスキ―はその荷物にふれようとしない。そのあとのかっこ書きで書いてあるところはチナスキ―がそれに参加していないから、そう(they unloaded)書いたのだと思うけど、かっこの前のwe unloadedと書くことによって、「ああ、この人さぼってるんだな」ということを読者により意識づける効果があるような気がした。

10人もいたら1人くらいそういう、仕事をやらない人がいるということはわかる。

 

 

 

・競馬のオッズについて

競馬についてはPost Officeにも出てきたのだが、わからなくて飛ばしてしまった部分もあった。今回も少しだが出てきて、今回は飛ばしたらまずいと思い、少し調べた。オッズというものは少しだけだがわかったような気がするので記す。自分は競馬のゲームはやったことはあっても、そのレースの賭け方は全然わからなくて興味を持てなかった。また、賭けをしたことがないので、違うかもしれないし、できていてもすごい手間をかけることを書いてしまうかもしれない。

 

例えばFactotumでは競馬のところでこういう表現が出てくる。'We were only getting 9 to 5 and I figured we couldn't win two days running, so I just bet $5.'

(p.107)

これは前の日も勝ったため、二日連続で勝てないだろうと思い5ドルのみ賭けた、その賭けた馬の対象は9-5、または口語で9 to 5であったということが書いてあるのだと思う。9-5とは何かというとこれは$5ごと賭けると$9もらえること、また、人気を示す。9-5は倍率にすると2,8倍とすることができる。倍率は低い程人気があるという意味で、高くなればなるほど人気がないということを表す。けれども人気がなければないほど、もらえる額も多くなる。これは結果の数字が書いていなかったけど、もし曖昧であるけど「勝った」なら2,8×$5で$14もらえるということを意味するのだと思う。

 

9-5、または9 to 5がなぜ2,8倍になるのか、また、2,8倍×$5=$14についてだが、もう少し書く。

 TVGというアメリカの馬の賭けやネットワークなどをしている会社のサイトでわかるところのみいくつか参考にしたのだが、こう書いてあった。文を二つ引用する。

When odds are shown in the traditional fractions, i.e. 4-1 or 9-2, it shows the amount of profit there is to be gained versus the stake.  So if you bet a horse at 4-1 for $5 and it wins, you will return $25 ($5 x 4 + original stake).

 

...so if your horse goes off at 4-5 this is basically 0.8 to 1 which is a negative, but you would still return your stake too.  So a winning $50 bet at 4-5 would return a total of $90, giving you a profit of $40.

 

一つ目の9-2や4-1というのは右側でいくらごと賭けると左側でいくらもらえるのかということが書いてある。例えば4-1だったら、$1ごと賭けると$4もらえるということが書いてある。ここでは$5賭けているので、勝つと、賭けた$5ともらえる$4をかけ、そしてプラスもともとの$5をもらうと$25になる。

 

二つ目では、4-5とある。これは一つ目の引用であった4-1のように、4-5を右側の数字5が1となるように4を5で割る必要がある、多分そちらの方が計算しやすいからそうするのだろう。4÷5すると、0.8(to 1)になる。0,8だったら、1よりマイナスなのだが、それでも元のお金を足すと利益になるということが書かれているのではないかと思う、一つ目と同じようにまず0,8と$50をかけると$40ともともとの$50よりマイナスになってしまうのだけれども、勝つと、その$40にもともとの$50を足して合計$90もらえる。

 

 

それと、9-5がなぜ、2,8倍になるのかということだが、これは9と5を足して14になり、それを右側の数字の5で割ると、2,8になるからだ。また、勝つとこの倍率に賭けた金額$5をかけ、$14になる。

TVGの引用一つ目ではそれにしたがうと、例えば4-1だと4と1を足して5になり、それを1で割ると5になる。つまり5倍だ。勝つと、それを賭ける$5でかけると$25になる。

TVGの引用二つ目では、4-5とあるので、4と5を足して9となり、それを5で割ると1,8になる。つまり1,8倍だ。勝つと、それを賭ける$50でかけると$90になる。

 

まとめると、勝った場合、何$もらえるのかというのは、例えばTVGの引用一つ目の4-1のとき$5賭けるときでいうと、ここではいずれにせよ$25もらえるわけだが、

①4-1に$5賭けているので、賭けた$5ともらえる左側の4をかけ、そしてプラスもともとの$5をもらうと$25になる

②倍率に直してそれを賭ける$5でかける、つまり4-1は4+1で5でそれを1で割り5となり、この5が倍率で、それと賭けた$5をかけると$25になる

という二つの計算の仕方があった。もっとあるのかもしれない。

 


色々競馬のサイトを見てみるとTrifecta(3連単(1・2・3着に入る馬を順番通り当てること))、Place(2着までに入る1頭を当てること)、Show(複勝(3着までに入る1頭を当てること))、Pick3(指定された3レースの1着を当てること)など知らない用語が出てきた。難しそうだ。多分計算方法も違ってくるのかもしれない、また、勝ちとは何かは変わってくるのだろう。

でもブコウスキーのこの本ではそこまで詳しく出ているわけではなかった。今回は出てきたのを飛ばすのはどうかと思って、一応、少しなのだろうが調べた。詳しい方がいたら教えてほしい。また、間違いもあれば教えてほしい。今回はそこまで詳しく出てきたわけではないので詳しくは調べなかったが、もし、違う本で出てきたり、実際に競馬の賭けをやる機会があればそのつど書いていきたい。

 

 

・読んだもの

Factotum: A Novel (English Edition)

Factotum: A Novel (English Edition)

 

 ※ペーパーバック版を買った。

 

断片

最近思ったこと、感じたこと。公開しようと思ったところだけです。

 

 

2020. 5.14

打ち上げられた巨大な魚って気楽そうだ。無気力で、横たわっていて。そういうふうに死にたいかもしれない。

 

今は死ぬ実感がないけども死んだ時は実感がない当時をどのように思うのだろうか。死ぬ前に死に影響しかねない行動をしているのにいざ自分の番になった時にドタバタするのはみっともない。

死んだらどこに行くのかというのはすごく興味がある。本当に無か。

 

責められている人がおかしいのではなくて、責めている人がおかしいのではないかなと思うことがたまにある。

 

自分は行動の正しさは分からないけど内と外とではだいぶやっていることが違う。

内と外が良い意味で同じ人に憧れる。

自分は外では周りに敏感になる方だけど、そうでない人を見て嫌になることが多い。でも仕方ないのかもしれない。内と外との捉え方は人それぞれ違うから。自分が外だと思っていても、他の人は内だと思っていることもある。

 

5.15

日記を見返した。紙のものだ。雨に濡れたりして、なんて書いてあるかわからないのもあった。他にも後から見返すことをあまり意識してなくてわからないところもあった。記録を残す点では、デジタルの方がいいだろう。でもがんばって、読みとることが、そのときの記憶をがんばって思い出しているようだし、それが読み取れたらとてもうれしい。

 

少ししか自分は日記に残せていなかった。ちっぽけな人間だ。でもそれを見かえすときが幸せだ。少なくていい気がする。

 

自分は支配的な人間だ。全部を知ろうとすることは支配欲のあらわれではないか。最近思うのは、支配しないということ、やりきれないということに美点を感じるということだ。自分が関与したことで話題を出している場があってももちろんうれしいが、何も知らない場もまた面白いかもな、と思う。

 

全部投げやりはもちろんだめだけど、投げやることも意外といいものだ。

 

自分は内省的、反省的なことを読むのがすきだ。日記とか。作家の日記をよみたい。

 

自分は思い出に浸ることができないのではないか。残そうとしない。面倒臭がってしまう。何やってんだろう。今が良ければいいってあさはかだ。自分はそういう思考になってしまってるんだけど。連続のものにあこがれる。

 

自分は思い出に浸りたいのだけど、それの記録の仕方がよくなかったり、保存の手間を省いたりで、うまく思い出をつくれていない。

いつも「いまがいい」と思っている気がしてあさはかだなとおもう。もっと連続性をもっていかなければな。

 

自分がしていること、挑戦していること、すきなことのみをいいというのはイコール自分がいいといっているみたいでいやだな。

絶望を感じたもの、自分の知らないもの、挑戦できそうにもないもの、なおかつできたら、自分が受け入れられないものをどうやって「いい」と言えるのかもっと考えなくてはだめだとおもう。けれどもそれを「いい」ということは難しいわけで。またはそれをいいと言わなくても受け入れようとする姿勢というのはもっておきたい。つまり言葉ではいやというのでないのであれば、いいと思ったことは「いい」というしかないわけで、それを言う頻度を減らすか、そのままでいたいなら、受け入れようという姿勢も言葉でなく、同時にもっていく必要があるのではないか。

 

自分はさまざまなことの保存が下手だ。「まあいいや」と思ってしまったり。

 

10年先考えたら自殺してるっていうことが一番妥当かもしれない。

 

5.16

苦しい思いをして本を読みたくない。

 

書いてると苦しくなるときがある。物事を整理したくない。

 

生きるために働きたくない。それなら何もしないで、最終的に死にたい。

 

多くのことをやり過ぎると、体がコントロールできなくて離れそうになることがある。

 

悩んでることって様々なことがこんがらがってるんだけど何かしら他よりいいところはあるんじゃないないかな。それは冷静にならないと見つけられないけど。自分は一つだめだと他の様々なものもだめだって連鎖的に思ってしまうのだけど、後から他ではいいところがあるんだって気づく。

 

死にたいっていうのはすごく瞬間的な感情なのか。連続して生きればいいこともあるだろう。それを見たくない、考えたくないという。「死にたい」と思ったときに行動して死んでしまった、それを自殺というのではないか。「生きていればいいことがある」と死にたい人に言うのは無意味ではないか、それはたしかにあるんだろうけど、それを死にたい人は考えたくないのではないか。

 

ネットニュースで済ませてしまうのだけど、本編の何分の一だろう。ラジオ聴くのが疲れるので、聴かないのだけど、聴いたほうが情報量も多いのだろう。

 

自分は文章もそうだけど、個性はものによってはきらいだ、スラングや癖のある文章とか。個性なしで普遍的なものがいい。それはつまり、余裕がないということ、慣れていないということなのかな。余裕が出てきたらそれを楽しめるのだろうけど。だから個性を尊重するっていうのは難しいしできない人にしろと言ってもできないだろうし。「スラングを楽しめ」と言われても無理だ。

個性を攻撃するのはどうかと思う時もあるが、個性を受け入れることができず、引き離してしまうこと、それは無視にもつながるのだろうけど、それは段階によっては仕方ない気がする。個性を認められた方は心地よいことも多いのだろうし、そうすべき時もあるのだろうが、それはなかなか達成できない。

 

共感大事だ。

 

5.17

自分を正当化したいとき、自分の気質を考えた上で「許してくれ」と思うことがある。正当化しないといてもいられなくなる。事にもよるだろうけど、それはだめなのかな。正当化する当人は精神的にとても苦しいところにいる場面もあるのではないか。

 

自分は人と関わることを避けてきた。それのどこが悪いか、それで何か不利益があるのかというと明確には言葉で表せないんだけど、やっぱりどこか欠陥があるんだろうと思う。

 

自分は20歳を過ぎたけど、大人という自覚はない。子供の時も子供という自覚はなかった。そう言われざるをえなかったという思いが強かった、それは否定したい気持ちがあるからなのだろう。

大人と言われる年齢ではあるけど、大人ではなくて、子供だと思っているかというと、そうではない、と反発したくなる気持ちがある。未熟と言った方がしっくりくるか。

成人式には行かなかったけど、行ったらもう少し20歳、大人になったのだという気分も上がったのか、ということを時々考える。けれども同じ学校だった人が、年をとってるのをどうしてもみたくなくて、また、年をとった自分というものを見せたくなくてそれが嫌で行こうとは思わなかった。考えも根幹的なことは変わっていないかもしれないけど、多少は変わっているだろうし。それが耐えられそうになかった。他にも行かなかった理由は色々ある。今後は分からない。同窓会などに行きたくなる時期もあるのかもしれない。

年齢的には大人、社会的には大人というのはあるのだろうけど、精神的に大人っていうとよくわからなくなってくる。

自分はそうは思いたくないけど、大人であることを認めなくてはならない時もある。けれども「今はまだ大人の序盤(小大人)だ。もっと大きな大人(大大人)がいて、それには達していない」と思ったりする。色んな段階を生み出してしまう。結局、他と比べての能力に自信がないときにそう思ってしまっているのか。

 

 

今悩んでいることはあるのだけれど、そういうときに前にしたよくできたと思うことを持ってきて自分を褒めようとすることは大切だと思う。

 

まだやり残したことがありながら早く死ぬのもありだと思う。

 

自分に厳しくすると、人にも何かしら厳しくなってしまう気がするので、どこかしらは自分を緩めたい。といってそんなに普段から厳しいのかというと微妙だ。

 

自分は軽蔑的なところで笑ってしまうことがあって、人を傷つけているのだと思う。やめたい。

芸人が笑っていることと同じことを自分も同じように笑うということは、状況や立場、役割をすごく考えなければならないとなあと思う。それはそういう位置に置かれているから、笑っているわけで。自分は笑っているけど他の人が笑っているかなんて確かでない。他の人はいらいらしているのかもしれないし。

 

5.18

自分で根拠がそこまでないのにこれは避けた方がいい、これはしない方がいいというルールを決めて、しかもそれを結構長い間守っていくことがある。それで救われたこともあるのだろうが、反対によくなかったなぁと、後から気づくこともある。嫌なことを避けるというのは、嫌な思いをしなくていいし、大事なのだろうけど、避けるのではなく参加することや受け止めることできたらもっと面白いのだろうなと思うこともある。

 

フォークソングがすきになれてよかった。それで悲しさに浸ることができてよかった。

悲しさを思い出したいときにフォークソングを聴けばいいのだって思えることが心強いことなのではないか。

 

自分は社会性がいろいろ欠如している。今まで避けてきたこともあるし、与えられていなかったと思うこともある。いろんなことを知っていない。

 

「それが性格」って他人から押し付けられると、考えるのをやめてしまうようで、嫌になる時がある。それを性格とみないで、もっと柔軟なものとして見ていきたい、見てほしいと思う時がある。

 

 

5.19

時間は短い。

 

物語の本を読んでると現実逃避が加速していっている。現実ともっと向き合わなくてはなあ。

 

無意識って場合によって、意外と創作チックになる気がする。前にしていたことがパッと出てくる時があって、じゃあ前何していたのかというと、小説を読んでいてそれが無意識として出てくるというか。無意識が真であるかって言われると微妙。

 

仲悪くないと不安だと思うタイプがいると思うけど、自分はそのタイプだと思う。仲が悪くなる、それは相手の素が見れるような気がするのだけど、それを見ないとどうしても落ち着かないのだと思う。

 

5.20

 

時間が経つのは早いなぁ。時間が経たない時間を体験したい。それは時間とは呼ばないのか。

 

自分は何でも認めようとする風潮に不気味さを覚える。周りが認める人が多かったらよくそんなに認められるな、と思ってしまう。だからどこかで強烈に認めるのを拒む人を探す。その人を見た後だと、認めようとする思いは強くなる。

 

 

5.22

ペギー・リーのインタビューを観ていた。

ペギー・リーのインタビューと言っていることは似ているかもしれないのだけど、自分はこんなことを思った。

いろんなライフステージを進んできた。「次はもっと楽しいだろう」、「充実しているだろう」と思うこともある。けれども、そうでない場合もある。そういう時は「またか」、「こんなものなのか」と思ったりする。いろんな連続でものを見ている。確実とは言えないのだろうけど、もう少し居てもいいか、と思ったらそうすればいいのではないか。それは一度離れた方がいい時もあるのだろうけど。

 

やるのが遅いのはいけないこともあるが、いけなくないこともあるのではないか。逃げ出した方がいいこともあるが逃げ出さない方がいいこともあるのではないか。

 

笑いというのが相手を傷つけるので笑ってはいけない場面というのもある。けれども、それで笑いたい人もおり、すべてを統制しようとすることはできない。それは関係によるが、遠い関係であれば、統制するのは難しい。自分もふつうは笑ってはいけないとされるコミュニティー内で笑ってしまうことはある。でもそのコミュニティーを統制されたいとは思わない。

 

困っている人を見て、笑いの対象としたいこともあるし、実際おもしろおかしいのだけど、それは自分が体験してないだけで、蔑んだりはしてはいけないのだと思う。それをうまくわかるということは難しいのだけど。

 

 

本もそうだけど、焦って定着せずにやることが多いので、なんとかしたい。

 

 

5.24

 

環境によって、というのはとてもあると思う。ここだったら言える、とか、ここだったらそんなこと言えそうにない、とかある。

 

望ましいことは瞬間的なことでなく、ある程度期間が持続することが多い気がする。

 

5.25

二つやる必要があったことが一つになり、一つしかやる必要がなくなった。そうなるとだいぶ落ち着く。複数やることがあると、どこから手をつけようかということが加算されていって、今日の場合で言うと単に二つ以上のなにかを感じてしまう。

一つになって、こんなに楽なのかとは思ったのだけど、二つあってその一つが構成要素になっている時はすごく重いように感じていた。

 

デュルケムの『自殺論』についての本を読んだ。ざっくりした言い方だが、個人的になっていくということが自殺に結びつくとことが書いてあった。個人と全体のバランスは難しいなと思った。

自分は「自殺」と言われて、何が知りたくなるかというとその動機だ。でも、この本にはそれはあんまり書いていなかったのではないかと思う。それは色々な本があるからいいのだけど。

この本については後からもう少し詳しく記事にして書くかもしれない。

 

有名人の自殺した理由を探ったりしていた時期があったのだけど、最近は自分が死にたいという思いをもつようになってきて、それは結構なんとなくというか、うまく言葉に表せないんだけど、色々複合的な理由でそういうふうに思うのではないのかな。だから、確固とした自殺の動機というのを求めるのは難しいし、なんなら無理なのだろうけど、大体の理由も知りたいと思う。でも、そうすると、決め付けた感はあって、難しいなあと思う。集合では死んだ理由を求めたいとは思うけど、有名人などの個人が死んだ時は、その理由を知りたがるのではなく、「ほっとこう」と思うこともあるようになってきた。

 

死にたかったから死んだんだというのは理由なんじゃないのかなと思う。

 

保存を上手くできるようになりたい。やったことをうまく残そうとしないから、後になって見返せない。後になってやったことを見返すということは幸せなのだと思う。それは行き詰まったときなどに思う。

 

今が良ければいいというのは、そういう時もたしかにあるのだけど、それじゃだめだと思うこともある。自分は前から今がよければいい、と思っていることが多かった。でも物事はそうじゃなくて、色んな連続で成り立っているような気がする。そう思うことが強くなってきた。

 

最近、試験を受けるかはわからないのだけど、英語の資格用の単語帳を買った。前までそれとは違うけど、単語帳を使っていた時期もあって、自分は単語帳が好きだったなぁということを思い出した。でも、この頃は能力もないのに毛嫌いしていることがあって、小説などの長文を読んでいた。しかし、わからない単語が多くて調べる機会も多く、もう少しまとまって覚えられればな、と思い、やはり単語帳を買うことにした。単語帳をやってみて、意外と小説に出る単語が多いなあと思った。それもあって、あんまり退屈しない。長文ばかり読んだ後に単語帳をやるのはいい方法なのかな、と思いつつある。単語帳をしていると、勉強している感じがする。

 

勉強が好きかどうかは内容によるけど、勉強っぽさとそうでないものというのがあって、勉強っぽいと感じるものをやっているという時間が、歳をとってくると、または、勉強っぽくないものをやった後だと、いいなあと感じることが増えてきた、内容によるけど。勉強というものに対してどう思っているのかということは他でまた書いていけたらと思うのだけど、網羅的というのが勉強っぽいと感じる。マニアックであったり、ごく特定のことをやっていると、そういうのは感じない気がする。それは最近、英語の単語帳をやっていて思った。小説などの本の文章を読むことは勉強っぽくはないのだけど、単語帳は勉強っぽく感じる。広い意味では色んなことが勉強なのだろうけど、そういうのじゃなくて。

面白い単語であったり、規則性のある単語で、紹介したいものがあれば、それを記事にしてみたい。

 

 

5.26

何で生きているか、言い換えると、存在すべき理由ということを考えることは難しいのだけど、反対に、何で生きない必要があるか、言い換えると存在すべきでない理由を考えることは存在すべき理由を考えるよりも楽な気がする。これはいらない、これはやめてほしい、など、存在すべきでない、と思うことはしばしばある。存在すべきでないものを取り除きつづけていって、それで生きるのは終わり、ということもありなのかな、と思うようになってきた。存在すべき理由を考えなくても事足りるというか。

何を取り除くのか、というのはよく考えなければならないのだろうけど。

 

死について気楽に考えられる時もあるのだけど、死にたくなるときは考えようと思えない。すごく落ち込んでいる。

ポール・ブライアンズの"Common Errors in English Usage"のメモ

著者-ポール・ブライアンズ 1942年生まれ。ワシントン州立大学の先生をしていた

 

 

"Common Errors in English Usage"という本をたまに参照する。さまざまな英語の用語の違いが書いてある本だ。いくつかなるほどと思ったところを書いていく。書いてあることをすべて訳したわけではない。

 

一つだけ引用する。

・emulateとimitate

 

emulate/imitate

People generally know what "imitate" means, but they sometimes don't understand that "emulate" is a more specialized word with a purely positive function, meaning to try to equal or match. Thus if you try to climb the same mountain your big brother did, you're emulating him; but if you copy his habit of sticking peas up his nose, you're just imitating him.

p.103

  

 

'imitate'はただ真似をするだけ、'emulate'は匹敵できるように、または、競い合うように真似るという意味合いで使われている。

 

 

以下は英語を引用せず、読み取った事だけを書いていく。5つほど。

 

・anyoneとany one(p.19)

「それぞれ」を強調したい場合に'any one'が使われていて、'anyone'はただ誰でもということを言いたい場合に使う。 

 

・cannotとcan not(p.48)

どちらも大体は交換できる語であるが、普通使われるのは'cannot'である。違いを言うなら、'can not'はより強く「できない」ことを否定したいときに使う。

 

・obtainとattain(p.28)

どちらも「獲る」という意味がある。難しさを伴う場合は、'attain'を用いる。

 

・stationaryとstationery(p.276)

これは単にスペルが似ているというだけのものだ。'stationary'は「安定した」、「変わらない」という意味で、'stationery'は「文房具」という意味だ。

 

・rebutとrefute(p.245)

似たような言葉である。どちらも「...に反論する」という意味合いをもつが、どちらかというと、'refute'の方が強い。'rebut'は口論する、'refute'は間違いを証明するまでいく。間違いであるという確信がなければ'refute'よりも'rebut'を使う。

 

 

 

多分地方や時代によってはこの本とは違う分け方をしていることもあるのだろう。でも、自分はそれ以前に、区別があるということを英語に関していえばわかっていないことが多いので、それが違うのだということをわかるようにもっと読んでいきたい。まだまだ全部読めていない。全部読むというよりも、気になったところを読んでいきたい。また、面白そうなところがあればブログに書くかもしれない。

 

 

・参考

Common Errors in English Usage: Third Edition (English Edition)

Common Errors in English Usage: Third Edition (English Edition)

  • 作者:Brians, Paul
  • 発売日: 2013/10/15
  • メディア: Kindle版
 

※ペーパーバック版のものを買った