断片

最近思ったこと、感じたこと。公開しようと思ったところだけです。

 

 

2020. 5.14

打ち上げられた巨大な魚って気楽そうだ。無気力で、横たわっていて。そういうふうに死にたいかもしれない。

 

今は死ぬ実感がないけども死んだ時は実感がない当時をどのように思うのだろうか。死ぬ前に死に影響しかねない行動をしているのにいざ自分の番になった時にドタバタするのはみっともない。

死んだらどこに行くのかというのはすごく興味がある。本当に無か。

 

責められている人がおかしいのではなくて、責めている人がおかしいのではないかなと思うことがたまにある。

 

自分は行動の正しさは分からないけど内と外とではだいぶやっていることが違う。

内と外が良い意味で同じ人に憧れる。

自分は外では周りに敏感になる方だけど、そうでない人を見て嫌になることが多い。でも仕方ないのかもしれない。内と外との捉え方は人それぞれ違うから。自分が外だと思っていても、他の人は内だと思っていることもある。

 

5.15

日記を見返した。紙のものだ。雨に濡れたりして、なんて書いてあるかわからないのもあった。他にも後から見返すことをあまり意識してなくてわからないところもあった。記録を残す点では、デジタルの方がいいだろう。でもがんばって、読みとることが、そのときの記憶をがんばって思い出しているようだし、それが読み取れたらとてもうれしい。

 

少ししか自分は日記に残せていなかった。ちっぽけな人間だ。でもそれを見かえすときが幸せだ。少なくていい気がする。

 

自分は支配的な人間だ。全部を知ろうとすることは支配欲のあらわれではないか。最近思うのは、支配しないということ、やりきれないということに美点を感じるということだ。自分が関与したことで話題を出している場があってももちろんうれしいが、何も知らない場もまた面白いかもな、と思う。

 

全部投げやりはもちろんだめだけど、投げやることも意外といいものだ。

 

自分は内省的、反省的なことを読むのがすきだ。日記とか。作家の日記をよみたい。

 

自分は思い出に浸ることができないのではないか。残そうとしない。面倒臭がってしまう。何やってんだろう。今が良ければいいってあさはかだ。自分はそういう思考になってしまってるんだけど。連続のものにあこがれる。

 

自分は思い出に浸りたいのだけど、それの記録の仕方がよくなかったり、保存の手間を省いたりで、うまく思い出をつくれていない。

いつも「いまがいい」と思っている気がしてあさはかだなとおもう。もっと連続性をもっていかなければな。

 

自分がしていること、挑戦していること、すきなことのみをいいというのはイコール自分がいいといっているみたいでいやだな。

絶望を感じたもの、自分の知らないもの、挑戦できそうにもないもの、なおかつできたら、自分が受け入れられないものをどうやって「いい」と言えるのかもっと考えなくてはだめだとおもう。けれどもそれを「いい」ということは難しいわけで。またはそれをいいと言わなくても受け入れようとする姿勢というのはもっておきたい。つまり言葉ではいやというのでないのであれば、いいと思ったことは「いい」というしかないわけで、それを言う頻度を減らすか、そのままでいたいなら、受け入れようという姿勢も言葉でなく、同時にもっていく必要があるのではないか。

 

自分はさまざまなことの保存が下手だ。「まあいいや」と思ってしまったり。

 

10年先考えたら自殺してるっていうことが一番妥当かもしれない。

 

5.16

苦しい思いをして本を読みたくない。

 

書いてると苦しくなるときがある。物事を整理したくない。

 

生きるために働きたくない。それなら何もしないで、最終的に死にたい。

 

多くのことをやり過ぎると、体がコントロールできなくて離れそうになることがある。

 

悩んでることって様々なことがこんがらがってるんだけど何かしら他よりいいところはあるんじゃないないかな。それは冷静にならないと見つけられないけど。自分は一つだめだと他の様々なものもだめだって連鎖的に思ってしまうのだけど、後から他ではいいところがあるんだって気づく。

 

死にたいっていうのはすごく瞬間的な感情なのか。連続して生きればいいこともあるだろう。それを見たくない、考えたくないという。「死にたい」と思ったときに行動して死んでしまった、それを自殺というのではないか。「生きていればいいことがある」と死にたい人に言うのは無意味ではないか、それはたしかにあるんだろうけど、それを死にたい人は考えたくないのではないか。

 

ネットニュースで済ませてしまうのだけど、本編の何分の一だろう。ラジオ聴くのが疲れるので、聴かないのだけど、聴いたほうが情報量も多いのだろう。

 

自分は文章もそうだけど、個性はものによってはきらいだ、スラングや癖のある文章とか。個性なしで普遍的なものがいい。それはつまり、余裕がないということ、慣れていないということなのかな。余裕が出てきたらそれを楽しめるのだろうけど。だから個性を尊重するっていうのは難しいしできない人にしろと言ってもできないだろうし。「スラングを楽しめ」と言われても無理だ。

個性を攻撃するのはどうかと思う時もあるが、個性を受け入れることができず、引き離してしまうこと、それは無視にもつながるのだろうけど、それは段階によっては仕方ない気がする。個性を認められた方は心地よいことも多いのだろうし、そうすべき時もあるのだろうが、それはなかなか達成できない。

 

共感大事だ。

 

5.17

自分を正当化したいとき、自分の気質を考えた上で「許してくれ」と思うことがある。正当化しないといてもいられなくなる。事にもよるだろうけど、それはだめなのかな。正当化する当人は精神的にとても苦しいところにいる場面もあるのではないか。

 

自分は人と関わることを避けてきた。それのどこが悪いか、それで何か不利益があるのかというと明確には言葉で表せないんだけど、やっぱりどこか欠陥があるんだろうと思う。

 

自分は20歳を過ぎたけど、大人という自覚はない。子供の時も子供という自覚はなかった。そう言われざるをえなかったという思いが強かった、それは否定したい気持ちがあるからなのだろう。

大人と言われる年齢ではあるけど、大人ではなくて、子供だと思っているかというと、そうではない、と反発したくなる気持ちがある。未熟と言った方がしっくりくるか。

成人式には行かなかったけど、行ったらもう少し20歳、大人になったのだという気分も上がったのか、ということを時々考える。けれども同じ学校だった人が、年をとってるのをどうしてもみたくなくて、また、年をとった自分というものを見せたくなくてそれが嫌で行こうとは思わなかった。考えも根幹的なことは変わっていないかもしれないけど、多少は変わっているだろうし。それが耐えられそうになかった。他にも行かなかった理由は色々ある。今後は分からない。同窓会などに行きたくなる時期もあるのかもしれない。

年齢的には大人、社会的には大人というのはあるのだろうけど、精神的に大人っていうとよくわからなくなってくる。

自分はそうは思いたくないけど、大人であることを認めなくてはならない時もある。けれども「今はまだ大人の序盤(小大人)だ。もっと大きな大人(大大人)がいて、それには達していない」と思ったりする。色んな段階を生み出してしまう。結局、他と比べての能力に自信がないときにそう思ってしまっているのか。

 

 

今悩んでいることはあるのだけれど、そういうときに前にしたよくできたと思うことを持ってきて自分を褒めようとすることは大切だと思う。

 

まだやり残したことがありながら早く死ぬのもありだと思う。

 

自分に厳しくすると、人にも何かしら厳しくなってしまう気がするので、どこかしらは自分を緩めたい。といってそんなに普段から厳しいのかというと微妙だ。

 

自分は軽蔑的なところで笑ってしまうことがあって、人を傷つけているのだと思う。やめたい。

芸人が笑っていることと同じことを自分も同じように笑うということは、状況や立場、役割をすごく考えなければならないとなあと思う。それはそういう位置に置かれているから、笑っているわけで。自分は笑っているけど他の人が笑っているかなんて確かでない。他の人はいらいらしているのかもしれないし。

 

5.18

自分で根拠がそこまでないのにこれは避けた方がいい、これはしない方がいいというルールを決めて、しかもそれを結構長い間守っていくことがある。それで救われたこともあるのだろうが、反対によくなかったなぁと、後から気づくこともある。嫌なことを避けるというのは、嫌な思いをしなくていいし、大事なのだろうけど、避けるのではなく参加することや受け止めることできたらもっと面白いのだろうなと思うこともある。

 

フォークソングがすきになれてよかった。それで悲しさに浸ることができてよかった。

悲しさを思い出したいときにフォークソングを聴けばいいのだって思えることが心強いことなのではないか。

 

自分は社会性がいろいろ欠如している。今まで避けてきたこともあるし、与えられていなかったと思うこともある。いろんなことを知っていない。

 

「それが性格」って他人から押し付けられると、考えるのをやめてしまうようで、嫌になる時がある。それを性格とみないで、もっと柔軟なものとして見ていきたい、見てほしいと思う時がある。

 

 

5.19

時間は短い。

 

物語の本を読んでると現実逃避が加速していっている。現実ともっと向き合わなくてはなあ。

 

無意識って場合によって、意外と創作チックになる気がする。前にしていたことがパッと出てくる時があって、じゃあ前何していたのかというと、小説を読んでいてそれが無意識として出てくるというか。無意識が真であるかって言われると微妙。

 

仲悪くないと不安だと思うタイプがいると思うけど、自分はそのタイプだと思う。仲が悪くなる、それは相手の素が見れるような気がするのだけど、それを見ないとどうしても落ち着かないのだと思う。

 

5.20

 

時間が経つのは早いなぁ。時間が経たない時間を体験したい。それは時間とは呼ばないのか。

 

自分は何でも認めようとする風潮に不気味さを覚える。周りが認める人が多かったらよくそんなに認められるな、と思ってしまう。だからどこかで強烈に認めるのを拒む人を探す。その人を見た後だと、認めようとする思いは強くなる。

 

 

5.22

ペギー・リーのインタビューを観ていた。

ペギー・リーのインタビューと言っていることは似ているかもしれないのだけど、自分はこんなことを思った。

いろんなライフステージを進んできた。「次はもっと楽しいだろう」、「充実しているだろう」と思うこともある。けれども、そうでない場合もある。そういう時は「またか」、「こんなものなのか」と思ったりする。いろんな連続でものを見ている。確実とは言えないのだろうけど、もう少し居てもいいか、と思ったらそうすればいいのではないか。それは一度離れた方がいい時もあるのだろうけど。

 

やるのが遅いのはいけないこともあるが、いけなくないこともあるのではないか。逃げ出した方がいいこともあるが逃げ出さない方がいいこともあるのではないか。

 

笑いというのが相手を傷つけるので笑ってはいけない場面というのもある。けれども、それで笑いたい人もおり、すべてを統制しようとすることはできない。それは関係によるが、遠い関係であれば、統制するのは難しい。自分もふつうは笑ってはいけないとされるコミュニティー内で笑ってしまうことはある。でもそのコミュニティーを統制されたいとは思わない。

 

困っている人を見て、笑いの対象としたいこともあるし、実際おもしろおかしいのだけど、それは自分が体験してないだけで、蔑んだりはしてはいけないのだと思う。それをうまくわかるということは難しいのだけど。

 

 

本もそうだけど、焦って定着せずにやることが多いので、なんとかしたい。

 

 

5.24

 

環境によって、というのはとてもあると思う。ここだったら言える、とか、ここだったらそんなこと言えそうにない、とかある。

 

望ましいことは瞬間的なことでなく、ある程度期間が持続することが多い気がする。

 

5.25

二つやる必要があったことが一つになり、一つしかやる必要がなくなった。そうなるとだいぶ落ち着く。複数やることがあると、どこから手をつけようかということが加算されていって、今日の場合で言うと単に二つ以上のなにかを感じてしまう。

一つになって、こんなに楽なのかとは思ったのだけど、二つあってその一つが構成要素になっている時はすごく重いように感じていた。

 

デュルケムの『自殺論』についての本を読んだ。ざっくりした言い方だが、個人的になっていくということが自殺に結びつくとことが書いてあった。個人と全体のバランスは難しいなと思った。

自分は「自殺」と言われて、何が知りたくなるかというとその動機だ。でも、この本にはそれはあんまり書いていなかったのではないかと思う。それは色々な本があるからいいのだけど。

この本については後からもう少し詳しく記事にして書くかもしれない。

 

有名人の自殺した理由を探ったりしていた時期があったのだけど、最近は自分が死にたいという思いをもつようになってきて、それは結構なんとなくというか、うまく言葉に表せないんだけど、色々複合的な理由でそういうふうに思うのではないのかな。だから、確固とした自殺の動機というのを求めるのは難しいし、なんなら無理なのだろうけど、大体の理由も知りたいと思う。でも、そうすると、決め付けた感はあって、難しいなあと思う。集合では死んだ理由を求めたいとは思うけど、有名人などの個人が死んだ時は、その理由を知りたがるのではなく、「ほっとこう」と思うこともあるようになってきた。

 

死にたかったから死んだんだというのは理由なんじゃないのかなと思う。

 

保存を上手くできるようになりたい。やったことをうまく残そうとしないから、後になって見返せない。後になってやったことを見返すということは幸せなのだと思う。それは行き詰まったときなどに思う。

 

今が良ければいいというのは、そういう時もたしかにあるのだけど、それじゃだめだと思うこともある。自分は前から今がよければいい、と思っていることが多かった。でも物事はそうじゃなくて、色んな連続で成り立っているような気がする。そう思うことが強くなってきた。

 

最近、試験を受けるかはわからないのだけど、英語の資格用の単語帳を買った。前までそれとは違うけど、単語帳を使っていた時期もあって、自分は単語帳が好きだったなぁということを思い出した。でも、この頃は能力もないのに毛嫌いしていることがあって、小説などの長文を読んでいた。しかし、わからない単語が多くて調べる機会も多く、もう少しまとまって覚えられればな、と思い、やはり単語帳を買うことにした。単語帳をやってみて、意外と小説に出る単語が多いなあと思った。それもあって、あんまり退屈しない。長文ばかり読んだ後に単語帳をやるのはいい方法なのかな、と思いつつある。単語帳をしていると、勉強している感じがする。

 

勉強が好きかどうかは内容によるけど、勉強っぽさとそうでないものというのがあって、勉強っぽいと感じるものをやっているという時間が、歳をとってくると、または、勉強っぽくないものをやった後だと、いいなあと感じることが増えてきた、内容によるけど。勉強というものに対してどう思っているのかということは他でまた書いていけたらと思うのだけど、網羅的というのが勉強っぽいと感じる。マニアックであったり、ごく特定のことをやっていると、そういうのは感じない気がする。それは最近、英語の単語帳をやっていて思った。小説などの本の文章を読むことは勉強っぽくはないのだけど、単語帳は勉強っぽく感じる。広い意味では色んなことが勉強なのだろうけど、そういうのじゃなくて。

面白い単語であったり、規則性のある単語で、紹介したいものがあれば、それを記事にしてみたい。

 

 

5.26

何で生きているか、言い換えると、存在すべき理由ということを考えることは難しいのだけど、反対に、何で生きない必要があるか、言い換えると存在すべきでない理由を考えることは存在すべき理由を考えるよりも楽な気がする。これはいらない、これはやめてほしい、など、存在すべきでない、と思うことはしばしばある。存在すべきでないものを取り除きつづけていって、それで生きるのは終わり、ということもありなのかな、と思うようになってきた。存在すべき理由を考えなくても事足りるというか。

何を取り除くのか、というのはよく考えなければならないのだろうけど。

 

死について気楽に考えられる時もあるのだけど、死にたくなるときは考えようと思えない。すごく落ち込んでいる。