「三島由紀夫レター教室」を読む


「三島由紀夫レター教室」は以前読んだことがあったものの、すっかり忘れてしまい、再読することにした。自分から自分への手紙や暇な人が暇な人へ送る手紙などがあり、面白い。主要な登場人物は五人おり、それぞれ癖をもつ。特に、45歳のトビ夫・ママ子のコンビが20代のミツ子・タケルを混乱させる。例えば、ミツ子とできている、20も離れたタケルに、ママ子が恋をし、それをトビ夫が応援するといった。つまりママ子とタケルを引き合わせる努力をトビ夫はするのかと思うと、そうはせず、反対にトビ夫はミツ子・タケルをさらに仲良くさせてしまったり……。結局未亡人であるママ子と、既婚の(最終的に離婚騒ぎに発展したが)トビ夫はいい関係になって、近くに住むようになる。なかなかやるな、と思った。以下、気になった点を紹介することにする。①嫉妬②送り手と受け手③気に入った手紙④印象に残った表現

①嫉妬 嫉妬という言葉はよく出てくる。これが三島の特徴だかはわからないが。嫉妬という言葉が出てきた所は三つ発見した。一つは、トビ夫にとって見ず知らずの支店長がママ子に対して、ラブレターを送ったことに対して、トビ夫が嫉妬からなのか、支店長を罵倒したところ(p22)。二つ目は、トビ夫がミツ子の知らない女から手紙をもらい、また会ってみようかと考えていることに対して、「いや、その女はトビ夫を愛していない」と嫉妬からか、ミツ子が言ったところ(p49)。三つめはママ子がタケルに恋をしたことへトビ夫が嫉妬したところ(p173)。いずれも嫉妬によって物語が複雑になってくる。

②送り手と受け手 この物語では、メインの人物が出した手紙(黒字になっているもの。誰が出したかわからない手紙(結局ママ子が出していたが)は除いた。)を合計すると、80通ある。表にしてみた。*薄青で囲ってある物が手紙を出した数(送り手)。薄緑で囲ってある物が手紙を受け取った数(受け手)。

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手紙を出した回数のランキング 一位ーママ子(24回) 二位ートビ夫(16回) 三位ータケル(14回)

手紙を受け取った回数のランキング 一位ーママ子(22回) 二位ーミツ子(18回) 三位ートビ夫(16回)

主要な登場人物間の手紙の出し・受け取りの回数のランキング 一位ーママ子→トビ夫(12回) 二位ータケル→ミツ子(11回) 三位ートビ夫→ママ子(10回) 

結果ーママ子はよく書く。そして、よくもらう。ミツ子→トラ一の手紙は一通もなかった。この物語上で、それぞれの主要な登場人物が10回以上は手紙を出し、また受け取っている。

③気に入った手紙 トラ一→ママ子の手紙は気に入った。トラ一は物語を中和させる役割を担っていると思った。例えば、ママ子がある青年に恋をしたが失望したため、6年前に出そうか、出さまいか悩んだ脅迫状の手紙をトビ夫に送って、その手紙をトビ夫が評した後に、トラ一は、ママ子に「脅迫状を送ります。今度はショートケーキを2つおごってください」と言った。ママ子からトビ夫に出した手紙と比べたら、だいぶ可愛らしい。

それから、「カラーテレビがほしい。3百円のケーキをおごってくれるなら、カラーテレビを購入する費用、3万円も貸してもらっていいのでは」といったことや、「ママ子のようなマダムと心中したい」といったりするのは、あまり現実味のないことだと思う。しかし、それがもう少しまじめに悩んでいる他の登場人物を引き立てているなと思った。けれど、現実にいたら、うざったらしいことは言うまでもない。

④印象に残った表現 印象に残ったものを列挙していく。地下鉄の轟音のようにとおりすぎる言葉(p22)。/脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけすごみがある(p60)。/剥きたてのセロファンのように新鮮な唇(p31)。/女ー恋愛、結婚相手の二つに分けるが、男はそのほか、心中の相手という選択肢もあると思う(p91)。/機知がひとつもない会話はまるで箱の中でマシマロがぶつかっているみたい(p98)。/英文の手紙を書くコツー①i(わたし)ではじまる手紙は書かない ②形容詞に凝るべきー一例ー「気まぐれな」を"temperamental"ではなく、"capricious"とする。その一方、英語の慣用句を日本人が使うことはキザである(p110-114)。/女の投書狂や身の上相談狂は大抵ものすごく多きな帽子をかぶっている女のようなもので、帽子で人を脅かし、その帽子で自分の顔を隠すことができる(p133)。/嫉妬は隠し切れない。それは硝子鉢の中の金魚みたいに、はっきり見える(p173)。

 

最後に、三島由紀夫から読者への手紙で、手紙を書くときは相手は全くこちらに関心がないという前提で書き始めなければならない(p217)というのがあるが、それは、自分勝手に手紙を書くな、ということとは必ずしも同じではないのかもしれない。この物語では、看護師から子どもができたという手紙を受け取ったママ子はその手紙の内容から自分勝手な印象を受けたが、ママ子もその喜びに包まれたといっている(p66)。また、タケルの告白の手紙を受け取ったミツ子はその手紙が、自分勝手だといっているが、タケルらしさがあり、素敵だといっている(p79)。時には自分勝手さも必要だと思う。自分勝手さがなければ、真実味が欠けるなんて言われることもある。しかし、程度の問題だ。

 

参考ー三島由紀夫、「三島由紀夫レター教室」、ちくま文庫、2012年

 

芥川竜之介著「侏儒の言葉」を読む

最近は星新一のあらすじを書くことはせず、ずっと読みふけってばかりいたが、もうすぐ10月も終わりで、今月は何も書いてないので何か書かねばと思った。

芥川竜之介「侏儒の言葉」は、前に「悪魔の辞典」や「エピクロスの園」などを読んで、それらに似ているということで、買ったはいいが、あまり読まずにいた本だ。たまに、青空文庫版「侏儒の言葉」でいいな、と思った語句をつまんではいたが。今日読んだはいいが、ピンと来たものは、ないことは無いが、そんなになく、読んだという感じはあまりしない。けれど、印象に残ったものを紹介する。

 

【侏儒の言葉、印象に残ったもの10個】

「修身」

道徳は便宜の異名である。「差側通行」と似たものである。

 

道徳の与えたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与える損害は完全な良心の麻痺である。

 

強者は道徳を蹂躙するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるであろう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。

 

良心は道徳を造るかもしれぬ。しかし道徳はいまだかつて、良心の良の字も造ったことはない。

←道徳から迫害を受けている人は多そう。なぜなら、強者、弱者と言い切れる人はそう、いないだろうと思うからだ。ちなみに、「強弱」という語句で、強者、弱者についても書いてあったー強者とは、敵を恐れぬ代わりに友人を恐れるものだ。弱者とは、友人を恐れぬ代わりに、敵を恐れるものだ。

しかし、敵を恐れぬ(友人を恐れる)=道徳を蹂躙するではないと思うし、友人を恐れぬ(敵を恐れる)=道徳に愛撫されるという訳でもないと思うので、「修身」と「強弱」には関係があるかはわからない。

それにしても、道徳は便宜的だといっていることや、弱者が道徳に愛撫されるといっていることから、芥川は道徳というものをあまりいいようにはみていないと思う。

 

「古典」

古典の作者の幸福なるゆえんはとにかく彼らの死んでいることである。

 ←確かに、死ななければ、古典と呼ばれるのは難しい。岩波に入っている人は大抵死んでいる。また、死ねば批判されることは無い。

 

「人生」

人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。

 ←鉛筆なども、安くて、重大に扱うといった感じではないが、刺さったら危険という意味では似ているのでは。更に、それを使っていろいろ描ける。

 

「ユウトピア」

完全なるユウトピアの生まれないゆえんは大体下のとおりである。——人間性そのものを変えないとすれば、完全なるユウトピアの生まれるはずはない。人間性そのものを変えるとすれば、完全なるユウトピアと思ったものもたちまちまた不完全に感ぜられてしまう。

←要は、人間性がもともと駄目だということだろう。人間性を変えたとしても、更に完成度の高いものを求めて......の繰り返し。

 

「武者修行」

わたしは従来武者修行とは四方の剣客と手合わせをし、武技を磨くものだと思っていた。が、今になって見ると、実はおのれほど強いもののあまり天下にいないことを発見するためにするものだった。ー宮本武蔵伝読後。

←これには二つ解釈があると思う。一つは、武者修行は身体的だけではなく、精神的な成長もあるというもの。もう一つは、自惚れだということ。苦労話をよくする人に対して使ってもいいのかな。

 

「桃李」

「桃李言わざれども、下自ら蹊を成す」とは確かに知者の言である。もっとも「桃李言わざれでも」ではない。実は「桃李言わざれば」である。

 ←ペラペラしゃべる人に対していいたい。もっとも、言ったとしたら、ペラペラしゃべる人は、「それはあなたが寡黙なだけだろう」と返してくるかもしれない。

 

「兵卒」

理想的兵卒はいやしくも上官の命令には絶対服従しなければならぬ。絶対に服従することは絶対に責任を負わぬことである。すなわち理想的兵卒はまず無責任を好まねばならぬ。

←要は、服従するものは無責任だといいたいのだろう。しかし、そうとも言えないのでは、と思ったりもする。与えられた仕事は責任を果たさねばならないのでは、つまり、与えられた瞬間は無責任な状態であっても、与えられたものに対しては無責任ではいけないと思う。無責任に仕事をしては上官も嫌だろう。

 

「文章」

文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ。

←そうおもう。大体、辞書の語句の説明には例外が多すぎる。だからといって、辞書を軽んじてはならない。まずは辞書の語句を押さえるべしとも読めるかもしれない。

 

「作家」

あらゆる古来の天才は、われわれ凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけている。もっとも踏み台はなかったわけではない。

←しかし、その踏み台を見つけるのが難しいのだ。また、跳び箱の踏み台のばねの強度はまちまちであるように、踏み台を見つけたといっても、それが凡人の手の届かないところへ連れていくほどジャンプさせてくれるとは限らない。

 

「矜持」

われわれのもっとも誇りたいのはわれわれの持っていないものだけである。実例。——Tはドイツ語に堪能だった。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだった。

←「ーしたい」というのと「ーない」というのは密接な関係があると思う。要はないものに欲望が生まれる。

 

以上、ちょいちょいツッコミを入れながらも紹介した。皮肉的なことにツッコミを入れるのも悪くはない。

 

参考

芥川竜之介、「侏儒の言葉」、岩波文庫、1968年

 

 

星新一「くさび」について

解釈

①子供は存在していない

まず、子どもが存在しているか、という点では、していないと思う。妻が意図的に、女医に行ったり、最後に出てきたのが、婦人警官だったりと、あえて妊娠を共感してくれそうな女性を選んでいるが、反対に男性の場合、医者や夫は、見えないといっているからである。つまり、女性は女性を気遣い、男の妻が妊娠しているていで、接しているように見える。

 

②計画的な殺人の可能性

保険の勧誘員は、どこで聞きつたえのか来た、そして、男が、坊やを踏んだと妻に注意され、自動車に跳ね飛ばされた。これは、意図的、計画的なような気がする。この話では、しばしば、妻が夫に対して、不満を言っている。それは、金銭的なことであり、妻は夫を殺したいと思っていたのかもしれない。

 

 

参考

星新一、1980、「くさび」(『ひとにぎりの未来』)、新潮文庫

「うっぽかす」

タモリ倶楽部2010年0723ででてきた「うっぽかす」とは何か?タモリは劇団ひとりに説明を求められて、建築用語と言っていたが。

番組的には、ぶち抜くというかんじで使っていた。劇団ひとりは「みんなでガンパればうっぽかせるんじゃないか」という意味合いで使っていた。

 ちなみに、天草弁では、うっぽがすで、穴を貫通するという意味、うっぽぐるで、穴をあけるという意味があるようだ。焼津の方言ではひっぽかすで、-を破ると言った意味がある。

 そもそも「ーぽかす」というのは、ーを破る、そのままにするという意味がある。

 

古間木

(古間木駅の歴史)

1894年ー日本鉄道の古間木駅として開業。一般駅

1906年ー日本鉄道が国有化

1922年ー十和田電鉄の古間木駅が開業

1961年3月ー日本鉄道、十鉄の古間木駅が三沢駅に改称

 

寺山修司によると、父が警察だったため、届け出を出したところが本籍地だという。それが古間木で、現在は三沢で三本木の隣に位置する。徹子が汽車に乗って通っていたところは、諏訪ノ平、三沢の下方に位置。

 

寺山が三本木を六本木と間違え、徹子がそれに対し、青森にあるのは三本木といったシーンは哀しさがあった。

 

参考

youtube 徹子の部屋 寺山修司との対談

 

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