「中原中也詩集」を読む

中原中也の詩は前にも読んだことがあって、「汚れちまった悲しみに…」で始まる詩だけはなぜか覚えていた。それで手に取ってみることにした。

詩の読み方はわからないが、気に入らないものは本当に頭にのこらない。すぐに次のページにいきたくなる。取り敢えず引っかかったものだけ載せておきたい。

詩に感想があるのかといったら必ずしもなくていい気はするのだが、一応どんなところが印象深かったのかも書いておく。四つ。

 

「木陰」

神社の鳥居が光をうけて

楡の葉が小さく揺すれる

夏の昼の青々した木陰は

私の後悔を宥めてくれる

 

暗い後悔 いつでも附纏ふ後悔

馬鹿々々しい破笑にみちた私の過去は

やがて涙つぽい晦冥となり 

 やがて根強い疲労となつた

 

かくて今では朝から夜まで

忍従することのほかに生活をもたない

怨みもなく喪心したやうに

空を見上げる私の眼——

 

神社の鳥居が光をうけて楡の葉が小さく揺すれる

夏の昼の青々した木陰は

私の後悔を宥めてくれる

 感想 楡の葉が揺れると後悔を宥めてくれるというところがいいと思った。

 

修羅街輓歌 関口隆克に 

「Ⅲ 独語」

器の中の水が揺れないやうに、

器を持ち運ぶことは大切なのだ。

さうでさへあるならば

モーションは大きい程いい。

 

しかしさうするために、

もはや工夫を凝らす余地もないなら……

心よ、

謙抑にして神恵を待てよ。

 感想 最初の段のところが良かった。なるべく余すことなく器を使えということなのか。

 

「春と赤ん坊」

菜の花畑で眠つてゐるのは……

菜の花畑で吹かれてゐるのは……

赤ん坊ではないでせうか?

 

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です

ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です

菜の花畑に眠ってゐるのは、赤ん坊ですけど

 

走ってゆくのは、自転車々々々

 

向ふの道を、走ってゆくのは

薄桃色の、風を切つて……

 

薄桃色の、風を切つて……

走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲

——赤ん坊を畑に置いて

 感想 二段目菜の花畑に眠っているのは赤ん坊かと誰にかは知らないが聞いておいて「いいえ、空で鳴るのは、電線です」とあんまり関係のないところを優先して答えるところがいいと思った。

 

「月夜の浜辺」

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てやうと

僕は思つたわけでもないが

なぜだかそれを捨てるに忍びず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、ボタンが一つ

波打際に、落ちてゐた。

 

それを拾つて、役立てやうと

僕は思つたわけでもないが

   月に向かつてそれは抛れず

   浪に向かつてそれは抛れず

僕はそれを、袂に入れた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは

指先に沁み、心に沁みた。

 

月夜の晩に、拾つたボタンは

どうしてそれが、捨てられようか?  

 感想 落とし物を拾ったということで、ここまで書けるということがすごいと思った。

 

参考

中原中也著・大岡昇平編、『中原中也詩集』、岩波文庫、1991年

寺山修司『家出のすすめ』を読む

寺山の言うことは動画のインタビューでも見ていたが本書に書いてあることもそれとあまり変わった内容ではない。一度家を捨てて家をもち自我をもち、親と友情的な付き合いをしたらどうか…等。提案としてはいいのだがあまり納得できるというものではないと思った。何故家出をすべきかというところはあまりわからなかった。

唯、斬新だ。例えばp77に寺山はこんなことを言っている。——故郷を捨てることの特権として望郷の歌を歌うことができるではないか、私は高群逸枝という老詩人の望卿子守唄を思い出す。ー

風じゃござらぬ汽笛でござる

汽笛鳴るなよ 思い出す

おどんがこまか時や奇田の家で

朝も早から汽笛見てた

汽車は一番汽車 八代くだり

乗って行きたいあの汽車の

ー望卿子守唄ー

確かに 故郷を懐かしむ歌を歌えるということは家出をする大きな理由となるかも知れない。家出の理由は様々あるがまあこれでもいいと思う。

 

p59の蝸牛の殻を家とし、家を背負っている、家を捨てれば魅力はなくなってしまうではないかというところはうまいなと思った。で、その後の文で蝸牛のように家は在る物ではなく成るものー自分たちの共通の理念をかたちとして創造していくものという箇所はあまり納得できない。人間に蝸牛のように具体的に殻ー家があるわけではないと思ったからである。家とはなにかをもっと考えようと思った。

 

単純にかっこいいことをいうなと思ったのはp179——

自分は自分自身の明日なのであり、自分の意識によってさえ決定づけられ得ない自発性なのです。

 自分とは何かということを決定づけるものは多くありすぎるだろうということをいっている箇所でこの言葉を使っている。あなたはなにか、と尋ねられた時に、いや、それはいっぱいありますと答えるよりは気が利いている。短くて、良い。

 

全体的に寺山修司の文章はあまりもっともなことをいっているという風には感じない。それは例えばもっと怒らないといけない、そのエネルギー明日へのモラルのガソリンとなるのだといったり(p172)、けちくさい所有の単位として家を考えるくらいなら、家等は捨てたほうがいい。死体置き場の万人になるくらいなら、街の群衆全体を所有する方が、はるかに人生に参加する意味があるといったり(p48)。けれど普通悪と考えられていることにそうではないと肯定しようとする試みはすごいと思う。自分の中では三島由紀夫の『不道徳教育講座』と被る部分が多い。

そして雰囲気が好きだ。例えば次の出だしで始まるようなところ——

・夜明けゆく都市の上を、電車道路の上を…(p183)

・暗い木賃宿の二階で、油虫を払いながら…(p158)

・旧陸軍のカマボコ兵舎で山羊をかくして飼っていたときのことをおもいだしながら…(p162)

 どうしてこんな悲しそうな、それと寺山っぽい言葉を使えるのだろうかと思いながら読んでいくのだった。

 

参考

寺山修司、『家出のすすめ』、角川文庫、2007年

 

「サトウハチロー詩集」を読む

サトウハチローが作詞した曲は「悲しくてやりきれない」や「胸の振子」等は知っていた。

本書を読んで、そして曲も聞いてみると他にも聞いたことがあるようなものがあった。——「リンゴの唄」・「エンゼルはいつでも」・「ちいさい秋みつけた」・「うれしいひなまつり」。結構ある。

聞いたことはなかったが「うちの女房にゃ髭がある」・「もしも月給が上ったら」という曲は面白そうだなと思った。

 

曲なしで詞だけを見るということは不断からしないが、今回はしてみた。それだとまた随分違う。曲もあった方が記憶に残りやすいと思った。

サトウハチローの曲はこの本では母親について書かれているものが多かった。しかし他人の母親のことだしな…と思ってあまり深く入り込める感じではなかった。母親について書かれたもので単にうまいなと思ったものを二つ載せる——

 

ふえた白髪も 

たるんだのども 

お前のはふしぎに 

美しさをましたね

——これは父の声……

手におえないのがいますからね

——母の小声の答え……

となりの部屋で首をすくめて

舌をだしたのは誰だか おわかりでしょう

(ふえた白髪も)

 感想 これは母の苦労を白髪で表している、そしてそれは誰のせいかということを舌で表している——どちらも身体で表しているのがうまいなと思った。

 

生卵は

のどがいがらっぽくなるからいや

うで卵は

おならくさい

こんなことをいって

卵をひとつもたべなかった母

 

わたしが母の命日に

沢山卵をそなえるのは

そのウソに頭をさげたいからなのです

(生卵は) 

 感想 本当はなぜ食べないのか、ということはいろいろ想像できる。やせ我慢からか、お金がないからか、何かこだわりがあるのか…。それはわからないが、食べない母を嘘をついているといって、仏壇なのか墓なのかに逆に卵をいっぱい供えるというのは面白いと思った。

 

文字を読んで終わりというのではなく曲を聞いてみるのもいいなと思った。

 

参考 

サトウハチロー、『サトウハチロー詩集』、ハルキ文庫、2004年

 

寺山修司『両手いっぱいの言葉』を読む

警句集。寺山修司の本の中から小林伸一という方が拾いだしたもの。寺山修司はタモリのものまねで知ったがどういう人かはあまりわからず…動画で喋っているのは見た。演劇を暗闇でやったり市街劇をしたり色々面白そうな人だ。本も読んでみようと思い『家出のすすめ』というものを手にしたが難しかったので断念。スペースが結構開いてて読みやすそうな本書を読むことにした。

警句集なので論理性や物語を通しての説得力というものは期待せず。警句を並べただけでは味気ない気もする。しかし腑に落ちるものもあった。言い回しの問題。十個列挙していく——

①p231ーホントよりも、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。——さかさま世界史——

 

感想 確かに嘘を言ったほうが人間らしいような...。三島の『不道徳教育講座』で嘘は独創性だというようなことが書いてあった。嘘をすすめていく逆説的な試みをあつめたい。

 

 

②p226ー「時間はね、こうやって大きい時計に入れて家の柱にかけとくのが一番いいんだよ。みんなで同じ時間を持つことができるから、しあわせなんだ。腕時計なんかに入れて、時間を外に持ち出そうなんて、とんでもない考えだ。」——臓器交換序説——

 

感想 時間を持ち運ぶっていう表現が新しいと思った。しかし時間を気にしないことはそれほどない。だからこそこういうことばは思いつかなかった。

 

 

③p252ー子供は子供として完成しているのであって、大人の模型ではない。毛虫と蝶々が同じものであるわけはないんで、毛虫は毛虫として完成しており、蝶々として完成していると思う。——猫の航海日誌——

 

感想 そうといえばそう。しかし完成してなくてもいい気はする。

 

 

④p259ーだいだい、他人の悪口をいうというのは、サーヴィス行為であります。いいながら、自分もすこしは爽快な気分になりますが、いわれる相手がつねに主役であり、言っている自分が脇役であるということを思えば、「いわれている当人」ほど爽快な気分とはいえません。キリストは、「右の頬を打たれたら、左の頬もさし出せ」といったそうですが、これは「右手で百円もらったら、左の手もさし出せ」というのと論理的には同じであり、かなり物欲しい訓えであるようにおもわれます。だから、悪口をいわれたら、悪口をもってこたえなければならない。それが友情であり、義理というものでもあります。——家出のすすめ——

 

感想 最後の方は極端な感じがしたが、悪口を言われたときに和らげるためにこういう考えもあるんだと一応書いておいた。寺山修司の脇役という言葉の使い方は面白い。死を生の脇役としているところもあった。

 

 

⑤p197ーシェークスピアを面白く読める人は、東京都の電話帳だって同じように面白く読めるわけだ。——密室から市街へ——

 

感想 よくわからないが警句っぽい。

 

 

⑥p198ー書物を嫌いになったのは、私が健康をとりもどすようになってからである。読むためには、肉体は沈黙を余儀なくされ、椅子に腰かけるかベッドに横たわるという「安静」人形のような状態が必要だということに気づくほど、私は恢復していたともいえるだろう。「読書家というのは結局、安静状態の長い人という意味ととれないこともないな」と私は思った。読書とは、もっとも反行動的な実践なのだ。——東京零年——

 

感想 最後の行動と実践という言葉は似ている気もするが行動に反をつけていいリズムだなと思った。

 

 

⑦p212ー血があつい鉄道ならば走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう——ロング・グッドバイ——

 

感想 よく分からないが凄い。

 

 

⑧p35ー「観客」ということばは「観る」ということを主にしていて、audienceが「聴く」ことを主にしているのと、対照的です。劇場に集まってくる人たちは、「観る」ことによって世界を理解しようとする人たちですが、いったい「観る」ということは何でしょうか?人がもし、見ることだけによって世界とかかわろうとしたら、それは「人目につかぬ片隅の穴」になることでしかなく、それは自己疎外にほかならないでしょう。アウトサイダーは、社会問題であって劇の問題ではない。私は、劇場で数千の目に見張られたいのではなく、数千の人と「出会い」たいのです。なぜなら、私自身が関係的存在にほかならず、その関係を組織しているのが演劇的な想像力だからです。——迷路と死海——

 

感想 見られている側らしい主張。まあ程度の問題。関係しすぎてもうるさい。

 

 

⑨p53-私の考えでは、ヘンシーンするのは仮面をつけたときではない。人はむしろ、仮面をつけたときには安心して本当のことを言える。だが、裸にされたら、本当のことを言ってはいられない。日常の現実の中で、裸は何のリアリティをも持っていず、裸が人前にあらわれてくるのはキャンバスの中、写真の中、スクリーンの中かステージの七色の照明の中といった虚構の世界だからである。——花嫁花鳥——

 

感想 もちろん裸はそれ以外にも存在するが、言われてみれば確かに日常では少ないなと思った。

 

 

⑩p85-快楽は、時としては政治的である。だが、快楽はいつの場合にでも反社会的であった。——人間を考えた人間の歴史——

 

感想 快楽とは何か、ということは結構気になっている。だから載せた。

 

 

参考

寺山修司、『両手いっぱいの言葉ー413のアフォリズム-』、新潮文庫、2002年

 

 

 

 

I read “The last leaf” and “The green door” by O. Henry

“The last leaf”

This story was as follows: Johnsy was wounded by stranger in the West of Washington Square and she become having the habit that was counting the leaf out the window until the leaf no longer hanged on: if it fell away, Johnsy thought it means Johnsy’s death, but the leaf never fell because one man-Mr. Behrman who wanted to sometime make the masterpiece was suffering from the pneumonia and later died painted the leaf man-made after had confirmed the last leaf fell, and then Johnsy watched that man-made leaf, she decided to live.

The depiction out of window was impressing- “There was only a bare, dreary yard to be seen, and the blank side of the brick house twenty feet away. An old old ivy vine, gnarled and decayed at the roots, climbed half way up the brick wall. The cold breath of autumn had stricken its leaves from the vine until its skeleton branches clung, almost bare, to the crumbling bricks.

 

“The green door”

This story started from what is adventure and Rudolf Steiner could be joined this group and the reason of this was followed: One evening Rudolf walked and found one black man who tossed the card writing “The Green Door” and if Rudolf watched other cards in from of him other people who passed this street thrown down, it’s writing not “The Green Door” but like “plate work”, and “bridge work”, “crowns” that was usual for the dental office. So Rudolf felt picking up the card writing “The Green Door” was special: the adventure must lie and decided to enter the Green door in the five stories. When Rudolf opened the door of green, a girl not reached yet twenty stood and tottering, he asked what happened, a girl replied didn’t anything eat for three days. So Rudolf decided to buy the food for her and gave and did good-bye, promised return sometime.

After going out the green door, Rudolf found the black man still stood at the road, so Rudolf questioned “Why you gave me these cards and what they mean”, the Black replied that means new play “The Green Door”, and informed about it. But Rudolf thought anyway it was the hand of Fate that getting the card “The Green Door” and find a girl.

 

The scene Rudolf bought the green door’s house and gave the food to a lady who hadn’t ate the food ate the food was interesting as follows: “When he turned again with the cup he saw her, with eyes shining rapturously, beginning upon a huge dill pickle that she had rooted out from the paper bags with a woman’s unerring instinct.”.

The room that door was green was one of rooms that was one of five stories and Rudolf raise upstairs, that depiction was swell: ”Rudolf walked briskly up the high flight of stone steps into the house. Up two flights of the carpeted stairway he continued; and at its top paused. The hallway there was dimly lighted by two pale jets of gas-one far to his right, the other nearer, to his left. He looked toward the nearer light and saw, within its wan halo, a green door.”.

 

Bibliography

O. Henry; selected and with an introduction by Burton Raffel (1984), “41 stories by O. Henry”, New York: Signet Classic

(O. ヘンリー著・大久保康雄訳、2002年、『O. ヘンリ短編集(一)』、新潮文庫

O. ヘンリー著・大久保康雄訳、2004年、『O. ヘンリ短編集(三)』、新潮文庫)