寺山の言うことは動画のインタビューでも見ていたが本書に書いてあることもそれとあまり変わった内容ではない。一度家を捨てて家をもち自我をもち、親と友情的な付き合いをしたらどうか…等。提案としてはいいのだがあまり納得できるというものではないと思った。何故家出をすべきかというところはあまりわからなかった。
唯、斬新だ。例えばp77に寺山はこんなことを言っている。——故郷を捨てることの特権として望郷の歌を歌うことができるではないか、私は高群逸枝という老詩人の望卿子守唄を思い出す。ー
風じゃござらぬ汽笛でござる
汽笛鳴るなよ 思い出す
おどんがこまか時や奇田の家で
朝も早から汽笛見てた
汽車は一番汽車 八代くだり
乗って行きたいあの汽車の
ー望卿子守唄ー
確かに 故郷を懐かしむ歌を歌えるということは家出をする大きな理由となるかも知れない。家出の理由は様々あるがまあこれでもいいと思う。
p59の蝸牛の殻を家とし、家を背負っている、家を捨てれば魅力はなくなってしまうではないかというところはうまいなと思った。で、その後の文で蝸牛のように家は在る物ではなく成るものー自分たちの共通の理念をかたちとして創造していくものという箇所はあまり納得できない。人間に蝸牛のように具体的に殻ー家があるわけではないと思ったからである。家とはなにかをもっと考えようと思った。
単純にかっこいいことをいうなと思ったのはp179——
自分は自分自身の明日なのであり、自分の意識によってさえ決定づけられ得ない自発性なのです。
自分とは何かということを決定づけるものは多くありすぎるだろうということをいっている箇所でこの言葉を使っている。あなたはなにか、と尋ねられた時に、いや、それはいっぱいありますと答えるよりは気が利いている。短くて、良い。
全体的に寺山修司の文章はあまりもっともなことをいっているという風には感じない。それは例えばもっと怒らないといけない、そのエネルギー明日へのモラルのガソリンとなるのだといったり(p172)、けちくさい所有の単位として家を考えるくらいなら、家等は捨てたほうがいい。死体置き場の万人になるくらいなら、街の群衆全体を所有する方が、はるかに人生に参加する意味があるといったり(p48)。けれど普通悪と考えられていることにそうではないと肯定しようとする試みはすごいと思う。自分の中では三島由紀夫の『不道徳教育講座』と被る部分が多い。
そして雰囲気が好きだ。例えば次の出だしで始まるようなところ——
・夜明けゆく都市の上を、電車道路の上を…(p183)
・暗い木賃宿の二階で、油虫を払いながら…(p158)
・旧陸軍のカマボコ兵舎で山羊をかくして飼っていたときのことをおもいだしながら…(p162)
どうしてこんな悲しそうな、それと寺山っぽい言葉を使えるのだろうかと思いながら読んでいくのだった。
参考
寺山修司、『家出のすすめ』、角川文庫、2007年