寺山修司『両手いっぱいの言葉』を読む

警句集。寺山修司の本の中から小林伸一という方が拾いだしたもの。寺山修司はタモリのものまねで知ったがどういう人かはあまりわからず…動画で喋っているのは見た。演劇を暗闇でやったり市街劇をしたり色々面白そうな人だ。本も読んでみようと思い『家出のすすめ』というものを手にしたが難しかったので断念。スペースが結構開いてて読みやすそうな本書を読むことにした。

警句集なので論理性や物語を通しての説得力というものは期待せず。警句を並べただけでは味気ない気もする。しかし腑に落ちるものもあった。言い回しの問題。十個列挙していく——

①p231ーホントよりも、ウソの方が人間的真実である、というのが私の人生論である。なぜならホントは人間なしでも存在するが、ウソは人間なしでは、決して存在しないからである。——さかさま世界史——

 

感想 確かに嘘を言ったほうが人間らしいような...。三島の『不道徳教育講座』で嘘は独創性だというようなことが書いてあった。嘘をすすめていく逆説的な試みをあつめたい。

 

 

②p226ー「時間はね、こうやって大きい時計に入れて家の柱にかけとくのが一番いいんだよ。みんなで同じ時間を持つことができるから、しあわせなんだ。腕時計なんかに入れて、時間を外に持ち出そうなんて、とんでもない考えだ。」——臓器交換序説——

 

感想 時間を持ち運ぶっていう表現が新しいと思った。しかし時間を気にしないことはそれほどない。だからこそこういうことばは思いつかなかった。

 

 

③p252ー子供は子供として完成しているのであって、大人の模型ではない。毛虫と蝶々が同じものであるわけはないんで、毛虫は毛虫として完成しており、蝶々として完成していると思う。——猫の航海日誌——

 

感想 そうといえばそう。しかし完成してなくてもいい気はする。

 

 

④p259ーだいだい、他人の悪口をいうというのは、サーヴィス行為であります。いいながら、自分もすこしは爽快な気分になりますが、いわれる相手がつねに主役であり、言っている自分が脇役であるということを思えば、「いわれている当人」ほど爽快な気分とはいえません。キリストは、「右の頬を打たれたら、左の頬もさし出せ」といったそうですが、これは「右手で百円もらったら、左の手もさし出せ」というのと論理的には同じであり、かなり物欲しい訓えであるようにおもわれます。だから、悪口をいわれたら、悪口をもってこたえなければならない。それが友情であり、義理というものでもあります。——家出のすすめ——

 

感想 最後の方は極端な感じがしたが、悪口を言われたときに和らげるためにこういう考えもあるんだと一応書いておいた。寺山修司の脇役という言葉の使い方は面白い。死を生の脇役としているところもあった。

 

 

⑤p197ーシェークスピアを面白く読める人は、東京都の電話帳だって同じように面白く読めるわけだ。——密室から市街へ——

 

感想 よくわからないが警句っぽい。

 

 

⑥p198ー書物を嫌いになったのは、私が健康をとりもどすようになってからである。読むためには、肉体は沈黙を余儀なくされ、椅子に腰かけるかベッドに横たわるという「安静」人形のような状態が必要だということに気づくほど、私は恢復していたともいえるだろう。「読書家というのは結局、安静状態の長い人という意味ととれないこともないな」と私は思った。読書とは、もっとも反行動的な実践なのだ。——東京零年——

 

感想 最後の行動と実践という言葉は似ている気もするが行動に反をつけていいリズムだなと思った。

 

 

⑦p212ー血があつい鉄道ならば走りぬけてゆく汽車はいつかは心臓を通るだろう——ロング・グッドバイ——

 

感想 よく分からないが凄い。

 

 

⑧p35ー「観客」ということばは「観る」ということを主にしていて、audienceが「聴く」ことを主にしているのと、対照的です。劇場に集まってくる人たちは、「観る」ことによって世界を理解しようとする人たちですが、いったい「観る」ということは何でしょうか?人がもし、見ることだけによって世界とかかわろうとしたら、それは「人目につかぬ片隅の穴」になることでしかなく、それは自己疎外にほかならないでしょう。アウトサイダーは、社会問題であって劇の問題ではない。私は、劇場で数千の目に見張られたいのではなく、数千の人と「出会い」たいのです。なぜなら、私自身が関係的存在にほかならず、その関係を組織しているのが演劇的な想像力だからです。——迷路と死海——

 

感想 見られている側らしい主張。まあ程度の問題。関係しすぎてもうるさい。

 

 

⑨p53-私の考えでは、ヘンシーンするのは仮面をつけたときではない。人はむしろ、仮面をつけたときには安心して本当のことを言える。だが、裸にされたら、本当のことを言ってはいられない。日常の現実の中で、裸は何のリアリティをも持っていず、裸が人前にあらわれてくるのはキャンバスの中、写真の中、スクリーンの中かステージの七色の照明の中といった虚構の世界だからである。——花嫁花鳥——

 

感想 もちろん裸はそれ以外にも存在するが、言われてみれば確かに日常では少ないなと思った。

 

 

⑩p85-快楽は、時としては政治的である。だが、快楽はいつの場合にでも反社会的であった。——人間を考えた人間の歴史——

 

感想 快楽とは何か、ということは結構気になっている。だから載せた。

 

 

参考

寺山修司、『両手いっぱいの言葉ー413のアフォリズム-』、新潮文庫、2002年