田山花袋著「蒲団」を読む

 田山花袋のものは初めて読んだ。漢字が見慣れぬものが出てきた。例えば86頁の一伍一什。これで「いちぶしじゅう」と読むようだ。またロハ台という言葉も36頁ででてきた。これは漢字の「只」を分解してロハと読むが、只つまり無料の台→ベンチという意味だ。

 

 話はざっというと、東京に住む主要な人物で小説を書く、時雄の下に弟子にしてほしいと、神戸のハイカラな女芳子が来るというものだ。時雄は妻・子がいるものの芳子が好きだった。けれども芳子は男がおり、それは同支社に在学中の宗教家でもある田中という男だった。芳子は時雄を裏切ったとし、父親に連れられ神戸に帰るまで、時雄が芳子が田中と男女の仲にならぬよう芳子を監視しているという作品である。

 

 読んでいて、(あっさりとした作品だな)と思った。読む前に、題名から見て(もっと濃い作品なのか)とおもっていたが。どうゆうところにあっさりした感じを覚えたかというと、まずは登場人物の設定。時雄は小説を書いている、というところがそこまで詳細に書かれてはおらず、さらっと書かれていて何で有名になったかなどは書かれておらず、……そこに小説家志望の女が来るのである。また終わりのほうで、芳子が時雄を裏切ったという描写もあるが、ここはあまりはっきりしない。

 

 題名である「蒲団」というのはなぜそういう題名にしたか気になり、描写を探してみることにした。けれども、出てきたのはあまりないという印象だった。先ず出てきたのが時雄が酔っ払い、「蒲団を着たまま、厠の中に入ろうとした」 (26頁) というところと、終わりの方の103・104頁の芳子が寝ていた蒲団のにおいを引っ張り出し、嗅いだというところだ。ここは「性欲と悲哀と絶望とが忽ち時雄の胸を襲った。」とあり、強烈な感じもする。が、「蒲団」という単語があまり出てこなかったので、あまり蒲団という単語に対し、特別ななにか感覚を持っているわけではないだろうな、と思った。

 

 言葉が短くまとめられており、テンポが出ている作品だなと思った。以下の所は短く書かれているな、という印象をもった。

 

 細君も芳子に恋人があるのを知ってから、危険の念、不安の念を全く去った。 (49頁)

 

 時雄は一時は勝手にしろと思った。放っておけとも思った。けれど圏内の一員たるかれにどうして全く風馬牛たることを得ようぞ。 (55頁)

 

  

 風馬牛とは「互いに無関係であること。」という意味のようだ。 (goo辞書参照)

 

 「蒲団」の解説は相馬庸郎という方が書いている。次の文章がこの作品をよく解説しているなと思い、載せる。

 

 「蒲団」の小説構造の特徴は、主人公竹中時雄の外面と内面が画然と分裂し、他の作中人物には夢にも知られぬ主人公内面の世界に、読者がはじめから詳しく立ち上がってゆくという叙述になっている点に、まず求められるだろう。若い恋人たちから見ればその考え方や生き方を理解し、指導する≪温情なる保護者≫、芳子の父の側から見れば分別ある師であり、信頼すべき監督者であるという姿勢を一貫して保ち続けるのが、竹中の外面である。しかしその内面は、外面のきれいごととはおよそかけ離れた中年男の醜悪なエゴイズムや暑苦しい性的関心が渦を巻く世界なのであり、作者花袋はそれをほとんど露悪的と言ってもよいような「力わざ」であばきだしてゆく。 

 

 特にこの解説の最後の方の中年男の内面と外面は違う。……その外面を作者は「力わざ」であばきだすという様に書いているところがいいなとおもった。

 

 あまり読むときに(これは—主義だ)などとは決めないようにしているが、「事実」を直截に提示することが自然主義の理念に関わることだという様に解説には書かれてある。以下の文章は田山花袋が『小説作法』というもので書いたものである。

 

 私の「蒲団」は、作者には何の考えもない。懺悔でもないし、わざとああした醜事実を選んで書いたわけでもない。ただ、自己が人生の中から発見したある事実、それを読者の眼の前に広げて見せてだけのことである。読者が読んで厭な気がしようが、不愉快な感を得ようが、またはあの中から尊い作者の心を探そうが、教訓を得ようががそんなことは作者にはどうでも好いのである。 (明治42年・7月、『小説作法』)

 

 田山花袋のいう様に事実を見せて、あとは読者に委ねる、そんな感じのする作品だ。

 

 

参考 

手元にある物—田山花袋、『蒲団・一兵卒』、2005年、岩波文庫

 

(「蒲団」は1907(明治40)年田山花袋が36歳の時、『新小説』に発表した。)