筒井康隆著「最後の喫煙者」を読んで

 筒井康隆は読んだことがあるようで読んだことがない作家である。今回「最後の喫煙者」を読んで、思ったことを書いていく。

 

 

 

話の中心

 この話はおれが最後の喫煙者となるというものである。喫煙者となると周りから嫌われる。そしてなると同時に保護しなければならないという対象になる。嫌煙家が増え、まわりから嫌われるのを嫌がるというのと同時に少数派になりすぎると保護されなければならぬということを批判している作品だと思った。

 

似ていると思ったもの

 読んでいて似ていると思った作品がある。星新一の「防止対策」というものである。この作品は水虫をもつ男がすばらしいホテルに滞在しており、水虫を保護する必要があるというものである。終わりの部分で、このホテルの従業員が「生きた人体を培養器としてまで、保存する必要があるのだろうか。」と疑問を呈している。

 

印象に残ったところ

 印象に残ったところは文の中に視覚的に注目を惹くところがあったところ。例えば名刺型のカードで「わたしはタバコの煙を好みません」と出てきているところや看板に「犬と喫煙者立入るべからず」とあるところだ。

 

筒井康隆の主張

 筒井康隆が言うところによると、煙草を吸う人は口内炎を喫煙によって治癒するとあるが、これは微妙な主張だなと思った。けれども以下のようなところは説得力もそこそこあるなと思った。拾っていく (……はkankeijowboneがつけた。) ——

 

 煙草を喫わぬ人間はたしかに健康的で血色もよい。スポーツをやる人が多いからだ。意味なくにこにこしている。物ごとを深く考えず、会って話していても面白くない。……落ちつきがない……喫煙は人間を情緒的にする偉大な発見であった。

 

 特に最後の喫煙は人間を情緒的にするという主張はわかるものがある。そんな感じがする。

 

感想

 今は禁煙にあふれかえっている印象がある。印象の問題ではあるが……。喫煙所は電車がみえるところや屋上で喫えるところなど場所的に工夫しているところもあるが、特に煙草禁止のポスター等を見ると(これは喫煙者であれば怒るだろうな)と思ってしまうものもある。煙草の臭いに苦しんでいる人にとっては煙草を喫われることは相当嫌なこともあるということは間違いないのだろうが。

 またこの話の最後に出てきた、対象が少なくなると保護されるというのは変わっているがおもしろいと思う。多すぎてもいけないし、少なすぎても駄目だということか。

 

参考 

 手元にあるもの—筒井康隆、『最後の喫煙者 自選ドタバタ傑作集 1』、新潮文庫、2015年

 (「最後の喫煙者」—「小説新潮」、昭和62年(1987年)10月号)