知ったかぶりたい

 知ったかぶるというのは嫌われるのだろうか、多分嫌われるのだろう。しかしたまには知ったかぶりたい、と思うときがある。

 「読んでいない本について堂々と語る方法」という本があるようだ。これは要は知ったかぶりについてのことが書いてあるのか…、読んでいないからわからない。しかし読んでみたい。

 

 ザキヤマの出ている映画には『来る』というものがあるようだ。このインタビューで、ザキヤマは感想を見ていないにもかかわらず、感想を言っている動画があった。ネタだろうか、これはおもしろい、と思った。しかしその動画を見て、映画を見ていないため、どこが本当にあったシーンなのか、ということはわからなかった。

 ネタでは無かったら、やはり嫌だろうか、知ったかぶるというのは…。

 

 前テレフォンショッキングで、中居正広が出ていた時に中居正広が「貝になりたい」という映画の話をしていたのだが、タモリは映画を見ていないのに見たようなふりをしていた。中居正広がどこのシーンが良かったか、聞いてタモリは「面会のところ」と言っていた。これはポスターにこういうシーンが貼ってあったようだ。

 また、「最後のシーンが…」ということもタモリは言っていたが「最後だから言えない」、ということを言っていた。いずれもネタだろうが、面白いと思った、それっぽいというふうにも思った。

 

 知ったかぶるというのは、それっぽい時もあると思う。

 読書した人としていない人がいたとしてどちらがそれっぽいか(実際に本を読んだか)、ということは、わからないときがある。「本をよんだ」と言う人ももし、話の要点ばかりつかむことに熱心だったら、それはあらすじを読んだだけの人(実際に本を読んでいない)と大して変わらないのかも知れない。あるいは、あらすじのほうが要点をうまくまとめられていて、それを読んだ人なら、そっちの人のほうが、読書したっぽいのかもしれない、そういう意味では実際に読書した人よりも読書していない人のほうが読書したらしく見えるのかもしれない。

 

 話の要点を追っていって、読んでいない人と大して変わらないなら、知ったかぶったほうが早いし、いいのかも、と思うときがある。

 

 ブログの読書の記事でも、そういうしったかぶりを感じるものはある。特にまとめ記事とか…例えば「○○のうちに読んでおきたい○○」とかいうタイトルのもの。「ほんとうに読んだのか」と思うことがある。また、ネタバレをしないよう意識しているのはまさにタモリのように「最後が良かった、しかし最後だから…ぜひお楽しみください」というのもある、これはネタバレしないようにしているのだろうし、そうすべきだとは思うし、なにか実際に読書したように見える。が、もしかしたら、読んでいない、というのもあるのかもしれない。

 

 

 たまには知ったかぶりたい、というふうに思った。

 

 

参考

「映画『来る』「ザキヤマインタビュー」編ロングバージョン」(YouTubeより)

「いいとも!テレフォンショッキング 中居正広」(YouTubeより)