久世光彦著『触れもせで——向田邦子との二十年——』を読む

久世 光彦(くぜ てるひこ、1935年4月19日 - 2006年3月2日)は、日本の演出家、小説家、実業家、テレビプロデューサー。テレビ制作会社「株式会社カノックス」創業者。テレビドラマ、小説ともに受賞多数。[…]演出家、プロデューサーとして『寺内貫太郎一家』、『時間ですよ』などテレビ史に残る数多くのテレビドラマを製作した。 (Wikipediaより)

 

 今回は久世光彦の本を読んだ。この本は、おもに、向田邦子と交流があった、久世光彦が向田邦子について書いていったものである。題名の『触れもせで』とは久世光彦は向田邦子とは20年近く関わってきて、それほど関わったらふつうは、炬燵の中でふと指と指が触れるとか、テーブルの灰皿をたまたま同時にとろうと手を伸ばすときお互いの肩がぶつかったりとかいうことが、あるのだが、久世光彦は向田邦子の体のどの部分にも、ただの一部も触ったことがない(久世光彦、『触れもせで——向田邦子との二十年——』、1992年、p.103,104)、というところからきているのだろう。

 興味をもったところに注目し、他の本と結びつけるなどし、書いていく。

 

カレーライス

 まず、一番最初に印象にのこったところは、カレーライスについて書いてあるところだった。

 久世光彦は向田邦子と昭和49年、『寺内貫太郎一家』という連続ドラマを作っていた。ホームドラマだということもあり、ご飯を食べるシーンが多い。ふつうなら<家族がそろって朝食をとっている>と書いてあるところを向田邦子はそうはせず、たとえば、貫太郎の機嫌がよくないと糠漬けのお新香の漬かりが悪いと言って妻の里子に怒鳴る、などをした。毎週そんなシーンが出てくると、消え物(劇中の食べ物のことを言う)の係が,献立を明細に指示してほしい、というようになり、向田邦子は翌週からそのシーンを最初のト書きに、<寺内貫太郎一家・今朝の献立>と銘打って、<鯵の干物に大根おろし、水戸納豆、豆腐と茗荷の味噌汁、蕪と胡瓜の一夜漬け>などと書いてくるようになった。朝のシーンの献立を書くために、昔の自分の家の食卓を思い出すのが楽しいと向田邦子は言っていた。ある日台本をもらったら、いろいろといつものようにメニューが並んだ最後に、<ゆうべのカレーの残り>と書いてあった。その台本を見てびっくりし、テレビを観ている人たちに伝えよう、と思い、その週の献立をそのままテロップで朝食のシーンに出すことにすると、写し忘れたから教えてほしい、という電話が、相次いだ。 (久世光彦、1992年、p.77-80)

  向田邦子がカレーについて話している作品として、『向田邦子全対談』(1990年)がある。倉本聰と対談しているところがあるのだが、そこで向田邦子は、カレーライスとライスカレーの定義について言っている(向田邦子、1990年)。以下に引用する。

 

「ライスカレーは、今倉本さんがおっしゃったように、平べったい西洋皿に、まわりに金なんか入っているんだけど安い器にご飯がのっかっていて、膜入り、うどん粉入りをかけていっしょに食べるのがそうね。カレーライスは銀の入れ物に入っていて、条件は膜張らないことね。うどん粉を使っていないわけね。やっぱりカレーライスのほうが絶対好きね、私は。」 (向田邦子、1990年、p.189)

 

 ほかには、カレーが辛いとベロを出して、ハッ、ハッ、ハッ、犬みたいになる、ということや「本当に辛いカレーを食べると、こめかみがジンジンしない?」ということを倉本聰に聞いたりしている。 (向田邦子、1990年、p.189)

 

 同じ本の、矢口純との対談で、矢口の問いに対し、向田邦子は以下のように答えている。

 

「今ちょっとおっしゃった前の晩の残ったカレーですが、向田家ではどんなたたずまいで朝ごはんに出ました?」「うちはね、一膳目からそんなものを食べたら叱られました。お行儀が悪いって言うんです。子どもは前の日のカレーを食べたいわけですよ。だから一膳目を食べると、そのご飯茶碗を見せる。すると父が「邦子は二膳目だな、よし」と言って、やっと食べられる(笑)。その茶碗にご飯を半分くらい入れて、その上にかけて食べました。」 (向田邦子、1990年、p.283)

 

 久世光彦の本に出てきたカレーは、向田邦子にとって、色々と名前に対するこだわりや思い出がある、ということが分かった。おいしそうだった。

 

食べる場面と音について

 上ではカレーライスについて、書いてあるところを述べていった。つぎは、それと関連して、食べることについて書かれた部分を書いていく。向田邦子は、矢口純の「日本のホームドラマには食べる場面が多いが、食事のシーンをどんなふうに考えているのか?」という問いに対して、食卓の情景と言うのはその家族の縮図だと思う(向田邦子、1990年、p.282)、ということを言っている。鴨下信一との対談では向田邦子は「ラジオからきたこともあるんですけど、ホームドラマの茶の間は一種のサウンドだと思うの。たとえば家族が五人いたら、お父さんのバリトンがあって、お母さんのアルトがあって、長女のソプラノがあって、というふうに五人の各々の音階がある合唱だと思うんです。」(向田邦子、1990年、p.200)とも、それから、「ホームドラマを考えたときに、その家族が何を食べて、夜に何を食べるのかの献立が作れるときには、そのドラマはうまくいきますね。[…]」(向田邦子、1990年、p.204)、とも言う。鴨下信一との対談で、たくあんを噛む音が好きで、噛んでくれない女優さんがいると腹が立つ、森光子はそういう意味では、音立てて食べてくれるから、好きだ(向田邦子、1990年、p.202)、それから、たくあんを噛む音も含め、皿小鉢の触れ合う音や、コップの音、咳払いなど、そういうサウンドが入る方がいきいきとしていていい、ということを言っている(向田邦子、1990年、p.200)。食事のうまい局と、意外とだめな局がある、とも述べており、テレビ朝日は味がいい(向田邦子、1990年、p.202)ようだ。

 

 たしかに、ホームドラマは、食事のシーンがおおいようにおもう。もっと注目していこうと思った。

 

字が判読困難

 向田邦子の字は判読が難しかったようだ。下手というわけではないが、判読が困難である。しかし、青山にある印刷屋のおやじはどういうわけか、器用に向田邦子の字を判読した。 (久世光彦、1992年、p.98,99)

  向田邦子は澤地久枝との対談の最中にも、自身の字が嫌だ、ということを言っている。以下に引用する。

 

澤地 それにしても、あなたぐらい、もの書きでいながら、書くことが苦痛だとかいやだとか言ってる人も珍しいわね。

向田 字がいやだわ。自分の字を見ると気持ちが悪くなるの、あんまり下手だから。読もうとすると頭痛がしてくる。

澤地 個性的なのはいいけれど、読めないのは困るわね。

向田 自分だって読めないんだから、私が日記なんかをつけないのは、あとで読めないからなの。狼狽と書いて台本見ると猿股になってる。

(向田邦子、1990年、p.176) 

 

 向田邦子の妹、向田和子の本(『向田邦子の青春』)では向田邦子は「書くのがじれったい」ということをよく言っていた、また、向田邦子がなくなった時、書き残したメモの類は一切のこっていなかった(向田和子、2002年、p.174)と書いてある。

   じれったい、と言ったのは、自分の字を見て気持ちが悪くなる、ということとも関係があるのかもしれない。

 

向田邦子は遅刻することもあれば、早いこともある 

 向田邦子は台本が遅いことで有名だった(久世光彦、1992年、p.13)。また、久世克彦はいつも向田邦子を待っていた、そのときの言い訳は猫が逃げてしまった、または出かけに電話があって、ということのふたつ、どちらかだった(久世光彦、1992年、p.8)。

 向田和子の本にも台本が向田邦子は台本が遅かった、ということが書いてあった。遅いのをみて、向田和子は「早くさっさと書いて、渡してしまったらいいのに」といったことがあった。しかし、向田邦子は以下のように答えた。

 

 「でもね、あんまり早くに渡してしまうと、みんなが考えて考えて作っちゃうでしょ。ぎりぎりに渡せば、考えて作っている間がないから、来たものをパッと演じる。それも私はいいと思うの」

(向田和子、2002年、p.167)

 

 遅れてくる、ということはふつう嫌だが、上に引用したのもそうだが、向田邦子なりに遅れてくる理由は、ほかにもあったのかもしれない。

 

 一方で、久世光彦は台本が遅いのは、書けないのではなくて、遊んでいて書かないから約束の時間に遅れてしまっていて、いざ書きはじめると、たいていは一時間分のテレビドラマを一晩で書き上げてしまう、ということを知っていた、とも言う(久世光彦、1992年、p.13)。

 つまり、書けば早いようだ。

 それは、向田邦子の対談の本(1990)でも澤地久枝との対談で言っている。澤地と向田は一緒に旅行に行った時の『時間ですよ』の原稿について、話しているところがある。旅行中、次の日に連絡方法は何もないチリに近い砂漠に行く行くことになった数時間前、やっと書き始めた、ということが書いてあった、以下に引用する。

 

澤地 その数時間前にやっと書き始めたのよね。私はベッドから見ていたけれど、あれは速かったわね。手首が原稿用紙にあたる、タッタッタッという音がしていると思うと、ピッと原稿用紙をはぐ大きな音が次々と聞こえて、何枚目ごとかに、書いた原稿用紙を、カンカンカン、と力をこめて揃えるんですよ。書いてるあなたより、わたしのほうが疲れちゃった(笑)。プロとはこういうものかなあ、と思ったわ。

向田 あれはリズムなのよ。テニスのサービスで、選手がボールをトントンとやるのと同じわけなの。今はもう、ああ速くはないわ。

(向田邦子、1992年、p.177,178)

 

 向田邦子は遅れる、そしてそれに理由がある、ということもあれば、反対に早い、ということもあるのだということがわかった。

 

太宰治の『待つ』

 上では向田邦子が遅い、早い、どっちもあるとわかった。

 久世光彦の上の、向田邦子が遅刻してくる、というところに近いページに興味深いことが書いてあったので、それも紹介したい。

 久世光彦は遅れる人がいれば、待つ人もいる、という。久世光彦は向田邦子には待たされていた。が、もしかしたら向田邦子も待っていたのではないか…久世光彦が昔読んだ本として太宰治の『走れメロス』がある。向田邦子は太宰を認める方ではなかったが、この小説だけは好きだと言った。しかし、向田邦子は好きだったからといって、そのような小説は自身には書けない、と思っていた。信頼、という字を書こうとして、そこでどうしても手が止まってしまい、待つという言葉が発音できなかった。それを見て、ふと、久世光彦は、向田邦子は、信頼できない誰かを待っていたのではないだろうか、と推測し、それはなんだったのだろうか、ということが気になっている。また、同じ太宰治の小品、『待つ』という、話を挙げる、この作品では毎日女が駅前のベンチに腰掛け、何かを待っているのだが、このベンチの女の顔に、向田邦子がダブって見える、という。 (久世光彦、1992年、p.10-12)

 この文を見て、気になり、太宰治の『待つ』という小品を読んだ。以下、その内容や感想などを書く。

 主人公は二十歳の娘で買い物の帰り、駅の冷たいベンチに腰を下ろし、買い物かごを膝に乗せ、誰かを待っている。この娘は、人が嫌である、また、誰を待っているのか、ということに疑問を抱いている、(以下、引用)「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。私の待っているのは、あなたではない。それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。[…]」(太宰治、1993年、p.158)、(『待つ』は太宰治、1993年、p.156-159にある)。ここでは、誰を待っているのか、というのは結局わからなかった。が、亡霊ではない、とあるから、死んだ者を待っている、というわけではないのだろう。もっと明るいものなのだろうか…わからなかったが、なにか、ひっかかるところがあった。

 話を久世光彦の本に戻し、この章をまとめる。ここでは久世光彦は、向田邦子に待たされていた、と思っていたが、向田邦子も待っていたのかもしれない、ということを久世光彦は推測し、太宰治の『待つ』という作品を思い出した。

 実際に『待つ』を読んでみたら、なにか気になるものがあった。

 

まとめ

 最初はおもに食べ物の話にひっかかった、『寺内貫太郎一家』ででてくるカレーライスは、向田邦子にはいろいろと思い出がある、ということが分かった。カレーライスと関連するものとして、食べる場面のことについても書いた、音を重視していた。それから、独特な字を書くということ、遅い時もあれば早い時もある、ということがわかった。

 向田邦子の『寺内貫太郎一家』を読むときには、おもに食べる場面に注目していきたいと思った。

 

参考——

 

文中に出した人物

・鴨下信一…昭和10年3月17日、東京生まれ。『寺内貫太郎一家』等多くの向田作品のディレクターを務めた(向田邦子、1990年、p.199)。

・澤地久枝…昭和5年9月3日、東京生まれ。『婦人公論』編集次長後、フリーに。『妻たちの二・二・六事件』でデビュー(向田邦子、1990年、p.157)。

・倉本聰…昭和10年1月1日、東京生まれ。『北の国から』、映画『駅(STATION)』も数々の賞を受賞し、そのシナリオ集も高く評価され、山本有三文学賞を受賞(向田邦子、1990年、p.185)。

・矢口純…大正10年4月18日、東京生まれ。昭和23年婦人画報社に入社。主な著書に、『私の洋酒ノート』『矢口純対談・滋味風味』『酒を愛する男の酒』等(向田邦子、1990年、p.277)。

 

参考としたもの

・久世光彦、『触れもせで——向田邦子との二十年——』、講談社、1992年(第4刷)

・向田邦子、『向田邦子全対談』、文春文庫、1990年(第5刷)

・向田和子編、『向田邦子の青春』、文春文庫、2002年(第3刷)

・太宰治、『待つ』(『女生徒』より)、角川文庫クラシックス、1993年(改版48版)

 

触れもせで―向田邦子との二十年

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向田邦子全対談 (文春文庫 (277‐7))

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写真とエッセイで綴る姉の素顔 向田邦子の青春 (文春文庫)

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女生徒 (角川文庫)

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