サルトルの「壁」を読む

 サルトルの「壁」という話を読んだ。これは政治的な活動をして、入獄させられ、刑が迫っている主人公のパブロやそのほか、おなじく処刑させられることになった人たちの心理などがかかれている。よんでいて思い出したのが、前にも紹介したが丸山健二の「夏の流れ」という作品である。「夏の流れ」では、おもに処刑する側について書かれていた。が、サルトルの「壁」はおもに処刑される側が書いてある。

 人が死刑というものに直面したとき、どういう行動をとるのか、どういう心理になるのか、ということは関心があるのだが、そういうことが多く書かれていた印象だ。「夏の流れ」にもたとえば、「囚人が泣きわめく」、「さけぶ」、「(執行官につかまれ)振り解こうとした」などの行動的な描写があったが、心的描写はあまりなかったように思う。「壁」ではもうすこしあったように思う。

 

 「壁」で印象にのこったところを載せる。ふたつある(以下、フランス語と訳)。

 

 Je regardais le Belge, arqué sur ses jambes, maître de ses muscles —— et qui pouvait penser à demain. Nous étions là, trois ombres privées de sang ; nous le regardions et nous sucions sa vie comme des vampires. (p.25)

 

 わたしはじっとベルギー人をながめた。両足をのばしてふんぞりかえり、筋肉を自由に支配している——あすのことを考えることのできる彼。ところがわれわれは血の気のない三つの影法師のようにここにいる。われわれは彼を見つめ、彼の生命を吸血鬼のように吸っている。(p.81)

 

 ここででてくるベルギー人とは、医者のこと(処刑とは関係ない)で、囚人のようすをみるためにきている。それを主人公のパプロふくめ、三人はよく思っていない、というシーン。対照的である。「夏の流れ」でも、主人公は妻がおり、その子供の誕生と囚人の死という対比があると思った。

 

 Je ne tenais plus à rien, en un sens, j'étais calme. Mais c'était un calme horrible —— à cause de mon corps: mon corps, je voyais avec ses yeux, j'entendais avec ses oreilles, mais ça n'était plus moi; il suait et tremblait tout seul, et je ne le reconnaissais plus. J'étais oblige de le toucher et de le regarder pour savoir ce qu'il devenait, comme si ç'avait été le corps d'un autre. Par moments, je le sentais encore.[...](p.28, 29)

 

 わたしは何物にも執着はなかった。ある意味では落着いていた。だがそれは身の毛のよだつ落着きだった——わたしの肉体を思うと。わたしの肉体。わたしは肉体の目で見、肉体の耳で聞いている。だがそれはもうわたしではない。わたしの肉体は一人で汗をかき、一人でふるえている。わたしにはもう覚えのない肉体だ。まるで他人の肉体のように、それがどうなっていくのかを知るには、それにふれ、それを注視しなければならない。ときどきわたしはまだ肉体を感じた。[...](p.85,86)

 

 ここは自分の肉体を強調していたのが印象的だった。

 

 

 

 読んでいて、タイトルにある「壁」が出る頻度はそこまでなかったように思う。しかし、「(銃を狙われるとき)壁に入りたい、だが、壁を背中で押してもびくともしない」などの文は面白いと思った。

 

 刑が決まって、人がどのようになるのか(心理面・行動面ともに)、という話があれば、さらにみていきたい。

 

 

 

読んだもの

Jean-Paul Sartre, Le mur('Le mur'), Gallimard, 2018

サルトル、「壁」(『水入らず』に収録されている)、新潮文庫、2003年

(フランス語と訳とを交互に見ていった。フランス語は全然わからないので、今後も見ていきたい。)

 

参考

丸山健二、「夏の流れ」 (「芥川賞全集 第7巻」より)、文藝春秋、1982年

前に「夏の流れ」を読んだときの記録ー丸山健二著「夏の流れ」(第56回 (1966年下半期) 芥川賞受賞作)を読む