笑い声について(その2)

 前も笑い声については書いた。この記事であるー笑い声(関根勤、サンドウィッチマン) 

 ここでは関根勤やサンドウィッチマンの笑い声にはつられて笑ってしまう、と書いた(実際には関根勤の笑い声は苦手だったが、それを芸としてみたら、おもしろいのではないか、と思うようになった)。

 しかし、反対に観客の笑い声がネタを面白くなくさせていると思うネタもある。宮下草薙のネタなどはそう思っている。草薙は、面白いことには違いない。が、観客が笑っているとなると、面白くないのではないか、と思うことがある。あの弱弱しいキャラクターというのは、内的なものとしておもしろいのであって、それが笑われることによって、共通的な笑いになるような気がして、嫌になる。多分、観客の笑い声がもっと抑えめだったら、もっと笑えるのではないか、と思う。笑い声がなくなったら、それはそれでつまらないような気もするので嫌だけれども……多分あまり伝わっていないと思う。

 笑いに対し、共感したい、と思うこともあれば反対に共感したくなくなる、ということもある、もっといえば笑ってあげよう、ということもあれば、笑ってあげたくない、と思うこともある。あまりまわりに共感しすぎる人が多くなると嫌である。それは、マイナーであったときは応援していたけど、人気になったら応援するのをやめた、というような。

 狩野英孝の滑り芸などのあまり周りが笑わない、という中、笑いたくなる、ということがある。ザキヤマはネタ中ではないとき、たまにボケたりするのだが、そういう時、笑ってあげよう、というふうに思ってしまう。そういう時は、なにか、「自分はわかってますよ」という感が出ているだろうか。それは嫌だ。相当嫌な存在になっている。しかし、それでもそういう気はなんとなく、もってしまう。

 かなり個人的なことを書いた。嫌になったら消す。