山崎正和著「柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学」を読む

 向井敏の「虹をつくる男たち」でも出てきたが、「猛烈からビューティフルへ」という1960年代から1970年代にかけての流行語があった。加藤和彦が<beautiful>と書かれた紙のようなものを掲げながら、街中をぶらぶら歩く、富士ゼロックスのcmから出てきたものである。著者の山崎正和は、「猛烈」という言葉はまさに60年代の生産性と勤勉さを指して具体的だとするが、「ビューティフル」は単に何かしら猛烈ではないもの、という以上の意味を感じさせなかったという。

 70年代は不透明で、漠然で、不安な時代で…この漠然とした70年代と60年代の違いを見ていったのが本書である。 下に本著の内容と感想を書いていく。かなり大雑把に拾っていった。

 

内容

 3章にわかれている。

 

 1章では次のようなことが書かれている。

 60年代は東京オリンピックがあり、その方向に人々は向かっていったという点で一つの主題があった。70年代は60年代に比べ、家庭や会社で過ごす時間が減って、自由な時間というものが増えたという事はいいのだが、人々はそれだと不安になって行く、また、高齢化が進み、老年の人口が増えたことにより、青年期に比べれば何をすればいいかということは選択肢が増え、そして自身でそれを考える必要がある。

 

 2章、3章では以下のようなことが書かれている。

 70年代以降、生活が多様になっていくにつれ、まとまった流行や爆発的なブームというものが少なくなり、消費に関していえば、多品種少量生産という言葉が合言葉になっていった。また、生活が多様性をもつと、一方的な今までの強制的な情報が減り、自らが社交をし、情報を収集していかなければいけなくなった。

 

感想

  あくまで個人や全体とこの本で言っているのは、それが把握しうる範囲、また、まとまった捉え方であって、もちろん個人はどんな時代にも存在するだろうし、その活動というものは人々に(また、著者に)把握しえないということもあるだろう。

 真っ先に大きな枠組みであるが個人的になったものは何か、と考えて思いつくのは、テレビ番組以外に動画などの個人でできる媒体が増えたことである。

 

 本著では他に生産と消費という概念があって、この二つはどちらも似たような点があるが、生産は目的のために過程を手段化する、もう一方で消費は目的を過程のために従属させる、この二つは切っても切れない関係であり、また、この二つが逆転するということもあるということが書かれていた。が、似ているのであれば、その概念をわかったところでごっちゃになりやすい、また、説明されたところでピンとこないと思ったので、上に書いた[内容]のところでは省くことにした。

 それから、この本の題名でもある個人主義というものだが、ここはそもそもの定義がよく書かれていないという理由で、最後の方に自我などとともに載っていたが、拾わないことにした。

 

 もう一度詳しく読んでいったらまた違う理解ができるのかもしれない。

 

参考

今回読んだもの 山崎正和、「柔らかい個人主義の誕生」、中公文庫、1989年

 

朝日新聞系の「好書好日」というサイトには、朝日新聞に2016年に載った、この本に書かれたことに関連する題名の記事がある。タイトルは〈表現する自我、さらに進んだ 山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」〉。