谷川多佳子著<デカルト『方法序説』を読む>について

 デカルトの「方法序説」は、着眼点は無しになんとなく読んだ記憶があったが、あまり印象にのこらなかったということもあり、本書を手にした。「方法序説」は手元にあると記憶していたが、探してみたがなかったので、今回はこの本のみを紹介することにする。

 

 この本は、岩波文庫の「方法序説」を翻訳した谷川多佳子が書いたものである。1999年10月に行われた「岩波市民セミナー」の四回の公演をもとにしている。

 著者の谷川多佳子(1948~)は1993年「デカルト研究 理性の境界と周縁」で筑波大学にて博士号を取得している(Wikipediaを参照)。

 本書は参考文献などが詳細に書いてあるわけではないが、セミナーの内容だからなのか。学位をとったものならもっと書いてあるのではないかと思う。

 

 以下、印象にのこったところなどを紹介する。また、哲学の素人であるkankeijowboneが読んでみて思ったことを書いていきたい。そこはデカルトの「方法序説」には今回はあたっておらずおこがましいので、軽く流してもらいたい。

 

 

印象にのこったところ

 「方法序説」を含む本のフルタイトルは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』である。全体は大きな本で全部合わせると500頁を超える大著で、『屈折光学』、『気象学』、『幾何学』の三つの科学論文集で成っておりその序文が「方法序説」である。 (12頁参照)

  

 デカルトの最後の著作『情念論』はデカルトのなくなる一年前に出版される。情念には受動という意味もあり、ここでは魂ないし精神の受動を意味する。 (20頁を参照)

 

 

 

 デカルトの有名な思想というのは「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」であったり、神の存在証明であったり、二元論であったり、動物機械論などがあると思う。いくつか紹介する。

 

「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」

 デカルトはいろいろなことに懐疑的で、様々なものを疑っていった結果、その限界としてコギト(I think)というものを発見した(108頁を参照)。

 

それについての意見

 コギト(考える)ということは他の動物はもっていないのか。

 考えるということは言語によって生まれてくることが多いと思う。言語がなければ考えることはできるのだろうか。(それは言語というものをどう定義するかによって大きく変わってくると思うけど)

 早速この前読んだ本の内容を出すのだが、河合隼雄の「無意識の構造」には身体言語という言葉が出てくる。——浮気され、耳が聞こえなくというヒステリーを起こす女性というのが出てきたのだが、それは「あなたの言うことなど聞きたくない」ということを表しているように見える。このように「呑み込めない」、「消化できない」などという言葉をわれわれが他人の意見や考えなどに対して使用するのと同様に、実際にものがのみこめなくなったり、消化不良になったりと、身体による表現を身体言語という。 (河合隼雄、「無意識の構造」、中公新書、2003年、38頁を参照)

 言語というのを身体までもってきていいのか、というのは疑問であるが(それだと記号のようになってくるような……)、広い意味で考えれば——言語を河合隼雄のいうように身体も含め何か伝えるものという広い意味で考えるのであれば、動物の言語というのも観察できるのではないのかというふうに思う(例えば鳥の飛ぶ、止まる、羽ばたく)。(が、それに意味を見出すというのはむずかしいだろう。そこらへんは他の本にあたっていく必要がある。) 

 その動物の言語というものを見つけることができれば、そして動物の考えるという動作を発見しさえすれば、考えるということは人間に限ったことではない、ということに近づけるのではないかというふうに思う。

 

神の存在証明について

 デカルトは疑っていること——したがって私の存在は完全でないこと——疑うよりも認識することのほうが完全性が大であることと明晰に見ているから自分よりも完全であるのは何かということを探し始めた結果、完全なもの——私の内ではなく、私よりも完全な本性の内にあるはずだ——神、とした。 (111頁を参照)

 

それについての意見

 他にも例えばデカルトの「省察」などでも神の存在証明については取り扱っていると思うのだが、今回はこれだけをみていく。

 ここでの神の存在証明は、自分よりも完全なものがいるから神はいるのだという意見だと受け取ったのだが、それならば、——完全なものであれば神は多くいるのか、という疑問がある。完全なものなら、なんでもいいのか、それなら、それぞれ人は(完全だ)というふうに思うものは大小の差さえあれ、あるのではないか。そうであれば神を他の完全という理由だけで、代替することもできるのか。

 そういうふうにかんがえていったときに、デカルトにとっての神とは何なのか、単に数学的な証明の仕方で神がいるといっているのか、または、神を完全の象徴として用いているのか、あるいはなにかイメージするものがあって神と言っているのかというのは気になるところだ。

 デカルトは生後まもなくカトリックの洗礼を受けたようで、カトリックの信仰をもちつづけたといわれている(93頁を参照)。それなら、もしデカルトが神のイメージをもっているならカトリック的な神というのが関係しているのか、気になった。

 

    〈誰が神を信じるか〉というのも大事だと思うけれど、〈なんの神を信じるか〉ということも大事なように思う。〈デカルトにとっての神はなにか〉というのを書いたものがあれば面白いと思う(すでにあるかもしれない。)。

 

動物機械論

 デカルトは人間には魂(精神)があるとしたが、動物には魂(精神)がないとした(129-129頁参照)。以下引用。

  動物たちには精神がなくて、自然が動物たちのうちで諸器官の配置にしたがって動いているのだ。たとえば、歯車とゼンマイだけで組み立てられている時計が、われわれが賢慮を尽くしても及ばぬ正確さで、時を数え、時間を計ることができるのはことができるのは知られていることだ。

 だから動物を叩いても機械的に鳴くだけだというわけで、ガブリエル・ダニエルの『デカルト世界の旅』では、心優しい男がデカルト主義を信じてしまったばかりに、町中の犬を殺してしまう。とにかく、精神(魂)を持たない動物は、身体のみの物質的な機械とみなされます。いわゆる動物機械論です。 (129-129頁)

  このあとにも谷川の文は続いている。

 デカルトは言語による意思の伝達と意味への対応で人間と機械の違いを示す。機械的な反応しかできない自動機械は、無限の状況に対応はできないが、人間はあらゆる状況全てに言葉で対応できるし、有限の記号によって無限の状況に言葉で対応できる。また、人間は理性を持っている。 (129-130頁を参照)

 

それについての意見

 「機械的な」というのは把握されうるという意味と似ているような気がする。——われわれ人間が、「機械的に動く」と言うときはミスはあるというもののだいたいは人間の想定の範囲の中で動いているように思う。それなら、人間もコンピューターなどにとって、——コンピューターの方が人間よりも優位に立つという事もあると思うのだが(例えば計算など。と言ってもこれは機械的か…詳しくないのでわからない。)——想定の範囲でしか動いていないのではないか、というふうにも思う。

     職種でも〈創造的な仕事〉と〈機械的な仕事〉の分別があるように思うが、〈創造的な仕事〉と言われているものもパターンなどを発見され、いつかはほかのものに抜かされるということもあり得る、それにしたがって人間も機械的だと言われることもあるかも知れない。

 

 また、理性とはなんなのかというのは検討していく必要がある。どう他の生物と違うのか。理性はどこに存在するのか。どの場面で存在するのか。

 

 この本で紹介されていたのだが、他にもラ・メトリという人物の「人間機械論」であったり、メルロ=ポンティの「知覚の現象学」などがあるようだ。他のも読んでみたいと思った。

 

参考 

今回読んだもの 谷川多佳子、<デカルト『方法序説』を読む (岩波セミナーブックス86)>、岩波書店、2003年