池田満寿夫著「エーゲ海に捧ぐ」(第77回 (1977年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

以下話の内容や感想などを述べる。

 

 

内容

 場所はサンフランシスコ。私はスタジオにいて、他にはアニタという髪が褐色でモデルでローマで出会った女と、グロリアという二か月ほど前アニタが突然連れてきた女がいて、二人の体を見ている。

 二人を見ている際中、日本にいる妻からの電話があって私に<女がいるでしょう>というふうに感づかれてしまう。

 なぜ感づかれてしまったのかを含め、妻が電話で話す内容や私が見た体の様子が中心にかかれている。

 

感想

 舞台設定にどこか新鮮味があって面白い作品だと思った。

 

 印象に残ったところを一つ紹介する。

汗が私のひたいから目の方へ無数に流れてくる。受話器がサルバドル・ダリの描いた受話器のように、手のなかでぐにゃぐにゃに軟化してしまっている。トキコの大演説が無限に続くとは思われないが、トキコの声を聞いている私の感覚は、もうとっくの昔に失われている。トキコ流にいえば、私はすでに無感覚の状態にいるのだ。 (201頁)

  「受話器がサルバドル・ダリの描いた受話器のように、手のなかでぐにゃぐにゃに軟化してしまっている。」というところがいいと思った。ところどころ話中に画家や絵を用いた比喩が使われている。池田満寿夫が画家だったからだろう。

 

選評

 第77回の他の受賞作には三田誠広の「僕って何」がある。候補作には小林信彦の「八月の視野」や高橋揆一郎の「観音力疾走」などがある。

 

 選考委員会には井上靖、遠藤周作、大江健三郎、瀧井孝作、永井龍男、丹羽文雄、安岡章太郎、吉行淳之介の八委員が出席した。(中村光夫は外国旅行の為書面回答。)

 

 大江健三郎は以下のようにいう。

 『エーゲ海に捧ぐ』は、情況設定も、電話の向うの立派な女も、デクノボーの主人公も、独特かつ効果的である。しかし二人の外国人の女はあいまいで、重ね塗りされるイメージも、そのひとつひとつは確実にしあげられていない。繰りかえしは豊かさと別のものだ。この作品を素材の段階において、あらためて再構成し、イメージを正確にしてゆく。その労作が、作家の仕事である。経験ある画家、池田満寿夫氏は、その不満を理解されるのではあるまいか。 (359頁)

 

参考

今回読んだもの 池田満寿夫著、「エーゲ海に捧ぐ」 (「芥川賞全集 第11巻」より)、文藝春秋、1982年