幸田文著「草履」を読む

 大分間が空いてしまったが前に幸田文の『台所の音』を読んだときにひっかかった作品として今回紹介する「草履」がある。以下紹介する。

 

 こんな書き出しから話は始まる。

 都会に季節感は少ないと言います。 (73頁)

 そして「都会では、季感と人情がからみあった話があるとすれば、それは実に新鮮なのです。」と続く。

 野内さんという寡婦がいて息子が心臓が悪く、私に不幸な話をしてくれる。その不幸な話を聞いていると私は自分の幸せを確認する。

 

 ある二月の夜、寒いなか、そろそろ私が締りをしようとしていたら野内さんがやってきた。話を聞くと野内さんは今日、金ごしらえに歩いていたのだという。——早世した主人が愛用していた時計を、少しでも高く売ろうとし、夫のかつて勤めていた会社に行ったが会社はつぶれており借金を背負いこまされているという。そこにはやつれてふけて見える奥様がおり、気の毒に思ったのか新しい草履と蕪を一つくれた。野内さんはその後時計を買ってくれそうな第二の候補の家に行く途中電車に乗っていると二人連れの、——そのうち一人は酔っぱらった青年がいて悪ふざけからなのか野内さんのもっている草履を買うと言って1000円札を突き出してきた。野内さんはそのお金が欲しかったので草履の箱を渡すと男は「おつりよこしな、999円」といってきたのでお札をひったくって突き飛ばした、という。男が飛び出したら丁度ドアはしまったようだ。野内さんはその帰り、うちへはまだついていないが、私の家に寄ってきた。(あの男が追ってこないか。怖い。)ということを相談するために私の家に来たという。(これからどうすればいいのか)と野内さんが言うので、私は(自分で自分の心の始末をつけるのがいい、また、いまはまだ取り乱しているのだから、思案が定まらないのでは)と思い「それは今夜はきめられない。あしたもあさっても一緒に考えましょう」ということを言うと、ほんとに真綿でも着せかけてあげたい後ろ姿で、野内さんは帰っていった。(重役の家から出て駅へ行く途、そして帰りの電車のなか、電車からここへ来る途、野内さんめがけて二月の寒気がたまっていたろう)と私はおもった。

 野内さんにはその後勤め先のお世話をした。

 

感想

 野内さんは春、夏、秋ではなくたしかに冬を感じさせる人だと思った。地の文がですます調でどこかよそよそしい感じのする書き方で、どこに向かって書いているのかわからないようなところもあるが、寒いので主人公である私が「ぶどう酒でもどう?」と言ったり、野内さんがお金を取ってきてしまって(どうすればいいのか)と思っているときに私が自分で自分の心の始末をつけるのがいいとおもった、というところにはあたたかさを感じた。

 

 印象に残ったところは最初のほう、一部先ほども紹介したが都会には季感が少ないが、それが現れることもあるということを書いたところである。

 電車、トラック、ビルディングといった頑固なものに取り囲まれた都会の生活では、人の気持だっていつの間にかこっそりと、まるで鰐皮かなんか着たようになってしまうのです。鰐皮では季節の軽く早いタッチを受取ることなど、上手にできるはずはありません。ごつごつにこしらえあげた都会に自然の季感は少ないのですし、鰐皮の人間は、季節をうけとることがへたになってしまったのです。

 ですから、ひょっとした弾みで、その鰐皮を脱ぐようなことがあるとします。たとえば、連休とか、病後とかいったときでしょうか。

 私たちは幸いなことに鰐皮の下にまだ本来持っていた、敏感に柔かい皮膚を失わずにいるのです。鰐皮を脱いだ敏感な皮膚は、たとえ都会に季感がごくわずかにしか残されていなくても、そのわずかをたちまち上手に捜し出してしまうのですが、そのときほんとに、大切なひとに久しぶりに会えたという感動があります。都会では、季感と人情がからみあった話があるとすれば、それは実に新鮮なのです。 (73-74頁)

 都会では鰐皮を着ているようになってしまうけどその下には本来の皮膚があって失わずにいるというところがいいと思った。 

 

参考

今回読んだもの 幸田文、「草履」 (『台所のおと』に収録)、講談社文庫、1995年