後藤紀一著「少年の橋」(第49回 (1963年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 

話の内容

 中学三年生の少年が主人公となって話の内容はかかれる。少年の母や姉と親父は現在別居中で、少年は家を行き来する。親父の家は町にある川の向こう岸にある。少年は自転車で橋を渡り、親父の家に行く。親父は絵描きで、酒をよく飲んでいる。

 

 少年は親父に対して憎悪を抱くこともあるが親父の家に毎日行っている。また母親が親父に対していっている悪口を的外れでばかだと思いつつも、例えば(少年が親父のもらったお金を母親にあげれば母親は喜ぶだろう)と思っている。

 

 少年のかなしさ、反発心や煙草を喫ってみるなど大人になろうとする様子も描かれている。

 

感想

 話の内容はひとまとまりと言うわけではなく、のびやかに描かれている。はっきりとした方向へは向かっていかない。そのため一場面一場面見ていく必要があると思った。

 特に最後の方は少年は気が高ぶって親父に対して物事を言っている。しかしその割には親父はそう動じてないと思った。

 題名にも入っている橋という語は、出てきたことはでてきたのであるが、だからといってあまり強い印象をもたせるというものではないと思った。

 もう一度読むのであれば何か注目するところを定めたほうがいいと思った。

 

印象に残ったところ

 親父の家に少年はしばしば行くのだが、少年は母親の家に主に住んでいるので親父は帰るように言う。以下は走って親父の家に言った場面で少年は汗をかいている。

 汗だくになっていた。三キロを休まずに走ったのだ。

 親父は炬燵に寝ていた。枕もとに本が積み重ねてある。さすがに驚いてむっくり起き上がった。それから、枕カバーのタオルをはがすとそれで汗を拭けといった。

「裸になって拭くんだ。風邪をひくぞ」といった。それから着換えのシャツを出しながら、

「遅いが泊ってゆくわけにはゆくまい」といった。

 それをきくと、ぼくは急に泣きそうになった。そうだ、泊ったりしたらおふくろを裏切ったことになる。 (273頁)

 タオルは例えば箪笥などから取り出すのではなく、枕カバーのタオルで汗を拭くというのが即興だと思った。

 

選評

 瀧井孝作、川端康成、丹羽文雄、舟橋聖一、石川達三、井上靖、永井龍男、中村光夫、石川淳、高見順の十委員出席(井伏鱒二委員欠席)のもとに、銓衡委員会を開催。

 井上靖は以下のようにいう。

 後藤紀一氏の「少年の橋」は複雑な環境の少年の孤独な気持と、両親に対する愛憎の揺れを描いて達者である。 (448頁)

 

 川端康成は以下のようにいう。

 「少年の橋」は読みはじめ、辻褄の合わぬような文章で困ったが、実は作品全体にそういうところがあり、読み進むにつれておもしろくなった。私などは逆立ちしても書けぬ作品である。しかし冷めたく見れば、今時の文学の傾向を集めたようなところが、新しいのか、新しげなのか、多少の疑問は残る。距離をおいてこの作品をながめると、やや力が弱まって来る。 (453頁)

 

後藤紀一について

 「芥川賞全集 第6巻」より一部抜粋する。

 

 大正4年(1915) 1月17日、山形県東村山郡山辺町に、父嘉平(雅号華平)、母とみの次男として生まれる。ほかに、男二人、女六人、異父弟妹三人がいる。家業は何代か前から、この地方一帯で地主の土地差配を勤めていたが、そのかたわら、父は日本画を描き、二人の作男を兼ねた弟子を置いて、手描友禅を業としていた。

 大正10年(1921) 6歳 山辺尋常高等小学校に入学、その頃、父の弟子笹原冨山が帝展(現在の日展)に入選、その作品「若松の図」が皇太后のお買上げになるという衝撃的な出来事に触発されて、漠然とながら、画家を志すことになる。

 昭和3年(1928) 13歳 山辺小学校高等科を卒業、画家を志したが学資がなく、京都の寺に嫁していた長姉の許に赴き、まもなく、下京区花屋町大宮東入ル北井紅友禅彩色工房に徒弟奉公に入る。その日から、友禅の基礎となる日本画を学ぶ。

 昭和20年(1945) 30歳 日本画グループ「春光会」の結成に参加する。

 昭和38年(1963) 48歳 「少年の橋」(「山形文學」十八集)が文學界二月号で同人雑誌推薦作となり、七月、第49回芥川賞となる。

 

 

参考 

今回読んだもの 後藤紀一、「少年の橋」 (「芥川賞全集 第6巻」より)、文藝春秋、1982年