中里恒子著「乗合馬車」(第8回 (1938年下半期) 芥川賞受賞作)を読む

 以外話の内容や感想など述べる。

 

 

 

中里恒子について

 中里恒子は1909年生まれで、藤沢に生まれ横浜山手の学校に入学したが、1923年の関東大震災で学校、家が焼失したので川崎に移る。1926年、母方の遠縁に当る文藝春秋社の菅忠雄の紹介で永井龍男を知り、そのことが文学に志す直接の動機になったようだ。1935年横光利一の提案で赤坂山の茶屋で時折開かれる句会に出席し、初めて俳句を作る。 (「芥川賞全集 第二巻」参照)

 

話の内容

 森之助という日本人のところへ嫁いだアデリヤというフランス人が中心である。アデリヤのもとへは日本に住む外国生まれの夫人が来るのだが、それぞれ自分の国を愛しており、自分たちの国の話をし、また、振る舞い方もその国に合わせてする。

 アデリヤは婦人帽子屋をすることになったが、仕事が忙しくなってきて、費用が不足することもあり、そして夫の森之助が帰らなくなるということもあり、帽子屋の仕事をするべきなのか、辞めるべきなのか、……また、アデリヤの家にきた元孤児院にいた菊代は、アデリヤの帽子屋の手伝いをすべきか、などがかかれている。

 

感想

 この作品は1938年のものだが題材は時代的には今日にありそうなものだと思った。「芥川賞全集 第2巻」のものでは約40頁、いろいろと要素が混ざっており、国際色豊かな話の感じがすれば、また、孤児院から来た登場人物もあり、それぞれ求めるものは違う。

 外国人が日本で嫁ぐことについて書かれたものはあまり読んだことがなかったので新しく感じた。文全体は敢えて外国人が喋っているような独特な感じを出す意図があったのか、読み易いものではないというところもあった。

 会話文「」の中に「、」と読点をつけていくのが特徴的だと思った。また、それだけでなく語尾は「……」や「——」で終わるものが多いと思った。どこか、なにか他にも言いたいことがあるということを表しているのか、あるいはリズム的なものなのか、またはとつとつとした喋り方を表しているのか、……他の中里恒子の作品は見ていないのでどういう風につけていっているのかはなんともいえないのだが、気になった。

 書き方のことでいえば他にも気になったところはある。孤児院から来た菊代という登場人物が孤児への贈り物の様子を思い出すときには物を一部「ー」伸ばし棒ではなく、片仮名の大文字で表している。例えば「スカアト」、「クリスマスデコレエション」。ここは敢えてそうしたかはわからないが、「スカート」や「クリスマスデコレーション」とするよりも悲しさが伝わってくると思った。ここは漢字かひらがなで書くのかという違いに似たところがあると思うけれど、伸ばし棒だと、片仮名の大文字を使うよりはすんなり頭に入ってくる感じはするのだが、片仮名の大文字を使うと伸ばし棒を使う場合に比べ、すんなりは入って来ず後まで頭に引っかかる感じがする。

 題名である「乗合馬車」とは何か。<話の内容>のところでは登場人物が多くなるため触れなかったが、この作品には外国人を姉として迎える必要があった彩子という登場人物が出てきた。乗合馬車というのは、彩子が出てきているところで使われるのであるが、「乗合馬車にも似た運命」という語が文中に出てきて、前後がそう簡単ではなくあまりはっきりと読み取れたわけではないが、彩子が異国の人々を姉とする乗合馬車のような偶然性——乗合馬車のように不特定多数が乗りあうこともある、という様な意味合いではないか、と思う。

時計の音

 話中で、アデリヤが帽子屋を続けるかどうか、窮しており、夫である森之助にお金を貸してほしい、というようなことをいったが夫はあまり聞いてくれず……、その後アデリヤは自分の国のフランスで母親が歩いていることを思い浮かべ、今後どうやって暮らしていくのか母の俤に祈るという場面があり、その後で、「隣りの部屋で時計の音がしている」という文がさりげなくあり、更にその後母が病気だという手紙が来るという場面が続くのだが、重大そうな場面の合間に時計の音をさりげなく持ってくるのが面白いなと思った。

 この前読んだ吉行淳之介の「驟雨」では最初の方の場面で、娼婦との待ち合わせの前に主人公が時計屋に寄るというシーンがあって、そこであった柱時計がおもいおもい時刻を示しているが、主人公は正しい時刻を選び出そうとした——そのとき主人公は胸がときめいたことに気づいたというところがあるが、これは主人公の久しく見失っていたこと、とある。「驟雨」の主人公は、その女を気に入ってはいたものの愛しているとは言えず、愛するという事は煩わしさもあり、そこから胸がときめく、という事から離れていたという文がある。正しい時刻を選ぼうとするところで娼婦に胸がときめくことに気づき、また、このところは後半娼婦を愛すべきかどうか、というところへつながっていくと思う。

 「乗合馬車」では時計が話の重要そうな場面間にさりげなくではあるが挟まれてある。「驟雨」では時計屋に置いてある時計が主人公の胸をときめかせた、それが後半では話の中心となっていく。小さなものであるが時計の役割を考えるのならば、「乗合馬車」では色々決断を迫られ、その決断の時間のようなものが逼迫した感じで時計がつかわれている、というイメージをもった。「驟雨」では時計がおもいおもいの時刻を示しているのだが、そこから正しい時刻を選ぼうとしたことから多数——それぞれ存在するものの——ではなく、ひとつを選び出そうとしている、そういったイメージで時計が使われていると思った。

 

選評

 選考委員はネットでは菊池寛がコメントしているものもあるのだが、手元にある物では菊池寛のコメントは確認できない。どこか他の本ではあるのだろうか。「芥川賞全集 第二巻」に選評があるのは久米正雄、小島政二郎、川端康成、横光利一、佐々木茂索、室生犀星、佐藤春夫、瀧井孝作、宇野浩二である。

 

 久米正雄は以下のようにいう。

 中里恒子さんの作品は、いずれも閨秀画家の水彩を見るように、鮮かで綺麗だ。綺麗ごと過ぎるかも知れない。苺入りのクリーム菓子のようでもある。只フレッシュな事は間違いない。 (371頁)

 

 室生犀星は同じ回の候補作である吉川江子の『お帳場日誌』を「うみたて卵のよう」といった上で、以下のように続ける。

 第二回の集りまでに私ははじめて中里恒子氏の「乗合馬車」を読んで、大変にうつくしい小説だと思った。小説というものに野心を持たず、にごった気持やすたれたところも見えず、美しい一方であった。おなじうみたて卵でも、中里の小説はうつくしい筐にはいっていて、吉川のお帳場はまだ生温かい寝藁の中にそっと置かれてあるようなものであった。 (374頁)

 

参考

中里恒子、「乗合馬車」 (「芥川賞全集 第二巻」より)、文藝春秋、1982年