桃尻関係

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阪田寛夫著「土の器」(第72回 (1974年下半期) 芥川賞受賞作)を読む

 第72回芥川賞受賞作は二つあって一つは以前紹介した日野啓三の「あの夕陽」でもう一方が今回の「土の器」である。阪田寛夫の作品は初めて読む。以下話の内容や感想などを述べる。

 

 

 

阪田寛夫について

 阪田寛夫は全く知らなかったので「芥川賞全集 第十巻」についている年譜を見ることにした。一応馴染みのあるものとして、「サッちゃん」を作詞したというのがあった。 (34歳(1959年)の頃。十月、大中恩から言われて、松田敏江歌のおばさん十周年演奏会のために「サっちゃん」ほか一篇の歌詞を書いた。)

 この前自分が読んだ「プールサイド小景」の庄野潤三は阪田寛夫が小学校の頃(7歳の頃)、潤三は6年生でいたようだ。阪田寛夫の書いた「庄野潤三ノート」というのも出ている。

 両親は熱心なキリスト教徒であったようだ。これがこの「土の器」にも反映されているのだろうか、「土の器」でも母がキリスト教徒であるというシーンは出てくる。

 

話の内容

 ケガをした、また、病気になった私の母が中心で描かれている。母は我慢を良くしていたが、「苦しい」という風にも言うようになった。母の元を訪れる私の兄や嫂、私の妻と母の関係、母の様子が中心にかかれている。

 

感想

 題名である「土の器」とはどこからきているのだろうか。例えば170頁には母の死後の書類が残っており、ケガをしたときをふりかえって以下のようなシーンがある。

 その時私はさっき礼拝堂に入る前に青年たちの集りにしばらく加わって外国人とおつき合いした経験を話しあって居たこと、困ったらどうしますかと言う質問をうけて、困ったらいけませんと答えた自分の声を思い出しました。困ったらいけないのです。四方から艱難を受けても窮しない、途方にくれても行き詰らない、之はパウロの声です。私たちはこの土の器の中に神から与えられた宝を持っているのです。 (略)

 聖書には詳しくないためあまりわからないが「土の器」というのが聖書には出てくるのだろうか。

 登場人物の私の存在はあまり感じず、母のまわりの人物が良く出てきたと思った。私の嫂、兄、妻等。しかしあまり自分が家族の関係性など追っていくのがうまくないため、見失いがちになり、理解したとは言い難く、印象強く残った作品という感じではない。キリスト教の要素も作品には出ているのだが、一辺倒キリスト教に関することで話が続くと言うわけではないので、難しい作品だと思った。

 

印象に残ったところ

 母は額に手拭いをのせてもらってただ散文的に寝ているだけだ。 (206頁)

  母が病院で寝ている場面。文脈の前後関係を見ても、わかるものではないのでここでは前後の文の引用はしない。この「散文的に寝ている」という文はなかなか見かけない。ザ・ハイロウズの「青春」には「散文的に笑う」という歌詞があるが、ここもあまり意味が分かったものではない。一応ネットで「散文的」で調べると「しみじみとした味わいや奥行が感じられないさま。また、まとまりのないさま。」 (weblio辞書ー「三省堂 大辞林」参照)とある。そんなに深い意味はないのだろうか。辞書のように、味わいのない感じという意味でいいのだと思う。

 

 もう一つ、印象に残ったところは既に安岡章太郎が選評の所で触れているところではあるが、この話では母は人前で話をするのはごく下手な方だが、肉体の痛みを素材にした話だと、私をいい気持ちにさせる、という場面がある。そしてその後以下のように続けている。

 それは泥絵風の呪力ではなくて、逆に痛みだけが抽ひ出されて物質化されてくるという感じである。姉に向って、機械の部品のように自分の右手を左の指先でつまんでは引戻しながらひとごとみたいに話してきかせた語り口が、母一流の客観化と美化の方法なのだ。 (171頁)

 ここはあまり理解したとは言えないけど、要はケガをした際の話し方は「呪力」という大袈裟というか、何かそれが「ケガである」ということ以上につたえる主観的なものである、というよりは、もっと「物質的」で、それがひとごとみたいで淡々としているという意味なのか、というふうに思った。

 

選評

 出席した銓衡委員は「あの夕陽」の時も紹介したが、井上靖、瀧井孝作、中村光夫、永井龍男、丹羽文雄、舟橋聖一、安岡章太郎、吉行淳之介である (大岡昇平は書面回答)。

 瀧井孝作は以下のようにいう。

 阪田寛夫氏の「土の器」は、キリスト信者の八十の老母の晩年、癌になっての闘病が丹念に描かれて、身内の人物たちの性格も描き分けられて、よく行届いた小説で、読みごたえのある力作と見た。私はひきこまれて読んだが、わかりやすい文章は結構だが、しかし、一般向きで弱く平凡で、私は、この作家の目に、もっときびしさが見えてきて、もっと実感が出たら尚好きだが、この作家が自分の文体を確立したら、私は申分がないと思った。 (424-425頁)

 

 吉行淳之介は以下のようにいう。

 阪田氏の作品について、瀧井さんが「ぬるい」とおっしゃったが、これはおもしろい表現の鋭い批評である。私もべつの表現だが、「ぬるい」ところがあるとおもって、彼のこれまでの作品を読んできた。今度のものは、その「ぬるさ」がふんわりした品格のある良さになってきた、とおもった。 (422頁)

 

参考 

 阪田寛夫、「土の器」 (「芥川賞全集 第十巻」より)、文藝春秋、1982年