石原慎太郎著「太陽の季節」(第34回 (1955年下半期) 芥川賞受賞作)を読む

 「太陽の季節」は6,7年前読んだことがあり、当時抱いた感想はあまりはっきりしないが青い感じのするというものであったが今回は2度目の読書ということもあるのだろう、もっと鮮明にどういう展開か、ということを追うことが出来たような気がする。が、船に関するところの描写は相変らず用語が分からなかったため、理解したとは言い難い。

 以下本の内容や感想などを述べる。

 

 

 

本の内容

 津田竜哉という高校生が主人公で彼は拳闘クラブに入っている。竜哉は英子という女に惚れるがその愛し方は独特である。素直とは言えぬ愛し方が中心にかかれている。

 

感想

 展開はすらすらっとしていた。男の方はどういう愛し方をするのか、主な人物だという事もあり、細やかに書かれていた気がするが、女の方はあまりそう丁寧に書かれていたとは思わない。極く、自然の流れでそうなったのだーー男についていったという感じはする。

 

 ボクシングの試合中のコーチの声の所を普通の括弧とは区別して"—"で区別してあって、そういう括弧の仕方もあるのかと思った。

   特に船に関連する語句であるが、振り仮名が外国語なのは船関連に詳しくない自分にとってはさらに複雑に感じた。

 

   主人公がああいう感じなのは若さのためか、スポーツが関係しているのか、あるいは作者が敢えてそういう風に書いたのか、わからないが、強烈だと思う。勢いを感じる話だと思った。

 

太陽族 (小林信彦著、「現代<死語>ノート」参照)

 太陽族について書かれたものがあったのでそれを紹介する。

 

 <太陽族>というコトバはジャーナリスティックな評論家、大宅壮一の造語といわれるが、「太陽の季節」に登場するような<無軌道な若者>を非難する意味で用いられ、昭和二十年代の<アプレ・ゲール>(戦後派=正しくは、アプレ・ラ・ゲール)にとって代った。この時のオトナたちの激しい非難が、同世代者を石原慎太郎寄りにしたのは確かである。

 現実に太陽族なるものが存在したのかどうか、当時の逗子・葉山をいくらか知っているぼくには疑問があるが、小説・映画の舞台になったこともあって、この年の葉山海岸は人出が多く、車がまったく動かなかった。

 スポーツカー、モーターボード、別荘など、<太陽族映画>はきたるべき消費社会を予言していた。戦後十一年目、日本の国連加盟がようやく認められた年である。 

 (小林信彦、「現代<死語>ノート」、岩波新書、1997年、4-5頁 (1956年))

  

 この本は、今は死語になりつつもある言葉ではあるが、時代ごとにどういう言葉が流行っていたのかが書かれている。本当の所は判らないが、無軌道的な若者たちーー太陽族なる用語があったようだ。今で言うと何に当たるのだろうか。 

 太陽族が「太陽の季節」に影響されて、或いはされていないということもありうるか、どのように行動したか、見てみたい気もする。

 

選評

 銓衡委員は宇野浩二、瀧井孝作、佐藤春夫、川端康成、舟橋聖一、石川達三、丹羽文雄、井上靖、中村光夫である。

 

 井上靖は「太陽の季節」について以下のようにいう。

 

 戦後の若い男女の生態を描いた風俗小説ではあるが、ともかく一人の——こんな青年が沢山いるに違いない——青年を理屈なしに無造作に投げ出してみせた作品は他にないであろう。のびのびとした筆力も、作品にみなぎるエネルギーも小気味いいものである。 (448頁)

 

 舟橋聖一は石原慎太郎について以下のようにいう。

 

 私は石原が、娯楽読物の書ける人だとか、そういう畑の人になるだろうかという見解を取らない。私は若い石原が、世間を恐れず、素直に生き生きと、「快楽」に対決し、その実感を用捨なく描き上げた肯定的積極感が好きだ。 (456頁)

 

参考

 今回読んだもの 石原慎太郎、「太陽の季節」 (「芥川賞全集 第五巻」より)、文藝春秋、1982年

 

参照

 小林信彦、「現代<死語>ノート」、岩波新書、1997年