吉行淳之介著「驟雨」(第31回 (1954年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 「驟雨」は前に本屋で確か背表紙に文字に色がついていて、際立っていると思ったのだが買わず。今回は芥川賞作品を読んでいる流れで読むことにした。以下話の内容や感想などを述べる。

 

 

 

話の内容

 東京のある街で主人公の山村英夫が道子に恋のようなものをする。が、道子は娼婦であり、……道子は果たして山村を愛するのか、それとも他にも付き合う人がいるのか、ということが中心に書かれている。

 

感想

 「娼婦は誰と付き合うっていくのか」ということは中々書けないものだと思ったが、この作品はそれを自然の描写も交え書いていた。「驟雨」とは「にわか雨」のことである。 (goo国語辞典) それで読んでから直ぐは漢字につられたのもあり雨のことだという風に思っていたのだが、じっくりみると話中に出てくる驟雨という単語は雨ではないようで、「一本の贋アカシヤから夥しく葉が一斉に落ちてくる様子」を「驟雨」という風に呼んでいるようだ。この作品の驟雨のように、漢字は当のそれを表すものだけれど、よく読むと違う、というものがほかの作品にもあれば探していきたいと思った。

 この作品に出てきた娼婦というのは前読んだものだと、永井荷風の「濹東綺譚」にも書かれていたと思う。「驟雨」でも、また、「濹東綺譚」を読んでいた時もそうだったのだけれど、娼家にいる時に他の男がいるから娼婦は帰してこなければ、というシーンがあったと思うが、あまりこの娼家というものの構造が理解できない。(暮らしている男がいれば、また、客もいるのか……。)と疑問に思っているところがある。そのためまた「濹東綺譚」は読んでみたいと思っている。

 特に描写は細かく、注意して読んでいった。けれども何か簡潔に書かれているような感じもした。あまりねちっこさみたいなようなものを感じない。

 

驟雨は何を表すのか?

 これは題名に惹きつけられたが故の疑問である。話中には、俄雨、或いは驟雨——贋アカシヤの葉が落ちてくる様子

の二つの驟雨(俄雨)が出てきたのだが、何を表すのだろうか。

 一個目の俄雨は、道子の部屋から見下ろしてある街を見ていると俄雨が降り出し、……というところで出てくる。この後、女たちが戦前と同じように誘いの言葉を言って、それから主人公の山村は情緒を感じた。この俄雨というのは何と対応しているのだろうか?——女が盛んに出てくる様子と対応しているのか、或いは山村が情緒を感じたというところと対応しているのか、それによって違うと思う。前者であれば<女の出る幕の合図>、後者であれば<男が情緒を感じ、少年ぽくなるという合図>のような意味を持つのだろうか。後者に関していえば、(まして情緒とは何と曖昧な)という風に思った。また、少年ぽくなるというのは純粋性を意味しているのだろうか。

 二つ目の驟雨は日光が道子の顔を照らすので、山村は(これを見ることによって明らかな娼婦の顔かどうかわかる)という風に思うのだが、道子は反射的に顔を逸らすので窓を見ると贋アカシヤの驟雨があった……というところで出てくる。この後の描写を拾っていくと、それで(樹木が裸樹になる……)等と続くのであるが、裸樹、ここは何かざわめいた感のあるところだなと思った。更に後には、山村が道子のことを嫉妬するという場面が描かれる。嫉妬というものに驟雨が対応している可能性もある。また、贋アカシヤというものの「贋」という言葉に何か意味を込めてあるのか、等とも疑問に思った。

 

 他のレビューも見て、驟雨とは結局なんなのだろう、という風に未だわからないのでいるのだが、ここでは一応それらしいと思ったものをもってくる。(「ebook japanより」)、「三田鉱広の小説教室」では「驟雨」とは「ドキドキすること、今でいうやばい」という意味があるのでは、としている。「三田鉱広の小説教室」では特に贋アカシヤの驟雨に注目している。そして急に風が吹いて驟雨のように葉がざわざわと揺れ動く場面の驟雨が「やばい」という事であるとしている。

 確かに裸樹になっていて、(やばい感じがするな)という風に思った。だいだいこんな感じの意味だろう。「驟雨」は「どきどきする、今で言うやばい」のような意味である、これが一応それらしいと思ったものである。

 

 けれども、また、この驟雨 (俄雨)というのは前半の俄雨と後半の贋アカシヤの驟雨とでは違うのか、……、同じだとしたら前半は(情緒的)とあって曖昧な感じがするので何を表すかはより複雑に解釈できるだろう、と思った。

 

 以上、色々な驟雨の意味をもってきたのだが、ある用語がまずはじめにあってあとにほかの用語が出てくる場合、他の用語にあまりまとまりがない場合、何にある用語というものが他の用語と対応してくるか、というのはわかりにくくなるなと思った。ある程度ほかの用語にまとまりがあったり、その用語から話の展開が見えてくれればいいのだろうが。暗示であれば、推理するのはある程度自由はあるし、また、<作者はこう思って書いた>等といっていればそれが意図するものなのだろうけども。或いはもう曖昧に(これは驟雨的な感覚だ)などと使っても面白いと思った。そういうものだってあるだろう。

 吉行淳之介が「驟雨」について語っているものがあれば見てみたい。

 

 

光の描写

 少し驟雨にばかり注目しすぎた感じはする。が、この作品では光を面白いところで用いるな、という風に思った。二つある。

 一つ目は主人公山村が道子の家の額縁を見ようとする場面である。道子の家に行くと、小さな額縁の中に映画雑誌のグラビア頁から切り出された女優の顔が映っているのを山村は発見し、それはレンズを正面から切り取られたらしいクローズ・アップで一部分が縦に切り捨てられ、——片方の眼は三分の一ほど削り取られており、それに道子は青白い光を灯したというところがある。以下、この先を引用する。

 

 彼女自身の眼のなかに、同じ青白い光を見ようとして、彼は女に視線を移した。その光は、この町とは異質な閃きを、彼に感じさせたのであった。 (82頁) 

 

 大分細かいが、切り取られた女の顔が額縁にあり、それに道子が青白い灯をともし、それを主人公の山村が見るというところである。額縁に青白い光を灯すということはあまり想像できない。

 顔に灯された青白い光が異質な感じがする、ということが文章の細かさと共につたわってきた気がする。

 

 二つ目の引用は道子の部屋に日光が来たので、山村が(道子が娼婦であるか)を試そうとする場面である。

 

 前の椅子の背には、日光がフットライトのように直射していた。何気なく、道子が彼と向かい合って腰をおろしたとき、明るい光が彼女の顔を真正面から照らし出した。彼は企んでいたのである。皮膚に淀んだ商売の疲れが朝の光にあばきだされて、瞭かな娼婦の貌が浮かびあがるのを、彼は凝っと瞶めて心の反応を待っていた。

 眩しさに一瞬耐えた道子の眼と、彼の眼と合った。彼女は反射的に掌で顔を覆い、その姿態のまま彼の傍に席を移すと、ゆっくり腕をおろし、 (略) 

(96頁)

  

 日光の具合で顔の様子を伺おうとするところがなんとも細かいと思った。そしてこの後で贋アカシヤの驟雨の場面が出てくるので、道子がここで顔を覆ったという事は娼婦かどうかということをぼんやりさせているため重要だと思った。

 

選評

 銓衡委員は宇野、瀧井、佐藤、川端、舟橋、石川、丹羽。

 

 川端康成は以下のようにいう。

 

 今回は候補作だけを考えていると、私は推すものがないので、候補の一作だけでなく候補作家という考えにひろめて、吉行淳之介氏を推すことにきめた。一旦そうきめると、吉行氏の他にはないと思った。吉行氏の「驟雨」の多少の物足りなさは、私たちの知る吉行氏のその他の作品が補ってくれる。また、新人としての吉行氏の存在が、芥川賞に価いしないとも思えない。 (426頁)

 

 石川達三は次のようにいう。

 

 委員会の翌日、もう一度(驟雨)を読んでみたが、私には満足できなかった。吉行氏には気の毒だが、この当選作について世評は芳しくあるまいと想像する。 (420頁)

 

参考

 吉行淳之介、「驟雨」 (「芥川賞全集 第五巻」より)、文藝春秋、1982年