安岡章太郎著「陰気な愉しみ」(第29回 (1953年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 前は「悪い仲間」を紹介したのだが、この「陰気な愉しみ」も同じ様に第29回の受賞作である。以下話の内容や感想などを述べる。

 

 

  

話の内容

 月に一度私は横浜の役所に、金をもらいに行くことになっている。七年前に軍隊で傷を受け、いまなお労働できない身体だという理由で金を与えられているのである。が、自分の病気をカタにしてお金をもらっているようで屈辱も感じる。

 役所のある野毛山には私以外に、いないでほしいと思っている少女がいる。18ぐらいだが齢に似合わない化粧をしている。が、ある時役所にいなくて、......けれどもぶらぶらしているとやはりいた。その時突然私は一人の靴磨きのお婆さんを思い浮かべ、(あそこに行ったら救われるかもしれない)という風に思った。

 私の靴は半年もみがいていない。だからそのお婆さんに磨いてもらった。しかしそれは独特な磨き方で、力一杯磨かれ、靴には信じられぬ程の輝きがあり何故とはなしに気が重くなった。私は疲れ、憂鬱さを感じてしまった。

 

感想

 先ずこの作品の題名「陰気な愉しみ」とは「私はみとめ印さえあれば役所に行く必要はないのだが、本人がいく、このいきたいから行く、が、屈辱感もある、しかしその日を待ち遠しい程待っている」という事である。「お金をもらいに行くという事はたのしみ」なのかもしれないけど、そこに屈辱感もあるからたのしみだということは少し変わっている気がする。

 設定で役所があるのが野毛山だという事で、その周辺に自分が行ったこともあり、出てきた地名などと照らし合わせ、(こんなところで出来事が起きているのか)という風に考えた。

 (病気が故にお金をもらうことに躊躇いがある)ということは何となく分かるような感じがした。だから、このような作品を読めてよかったと思った。

 見たくない少女を見てしまって、それで(靴磨きのお婆さんに会ってみよう)というのは急する気がしたが、そういうこともあるかもしれない、という風に思った。癒しを求めていた、という様な意味で。

 思いついて靴磨きをしてみようと思ったらなんとも予想外な磨き方だったという事は、意外な出来事だっただろうなと思った。

 

少し変わったたのしみ

 出てくる主人公私は屈辱を感じながら役所に金をもらいに行くという事もそうであるが少し変わった人物だという風に思った。幾らか、おこなったことで快感を覚えるという場面があるのだが、それも少し変わっている。

 野毛の坂の下には食料品店のピカピカに磨き上げられたショウ・ウィンドウがあり、そこには横たわったハムやぶらさがったソーセージがある。それらを私はじっくりと眺めるとそれらに生命感が吹き込まれ、眼前にたったいま切断されたばかりの胴や胸の様にみえ、それで私の貧弱な胃袋が驚き怖れることや私の鼻をガラスにおしつけてそれが往来の人にみられているいるということが快感だとしている。

 また、家族連れのこどもを見ては怖い顔を作って子供を睨みつけ、子供が顔色を変えることが快感だとしている。

 少し変わった人物だという風に思った。が、変わった人物が主人公であるとどんなことをするのか、と思う感じもある。

 

印象に残った描写

 三つある。一つは役所にいくための坂を上るシーン。

 

 電車通りを横断して坂にかかると私はのろのろとおぼって行く。……片側にセメントの塀がいつまでも追いかけるように続くのを見ながら、呼吸がだんだんせわしくなり、胸の中に酸ッぱい空気がつまってくる。こんな苦しさが私を安心させる。そして元気づくまいとして、出来るだけうつ向きになって歩く。うしろから風を切って自転車が私を追いぬき、カブトムシの背中のように光った尻を見せながら、泥水をはねあげて行く。このときばかりに私は、わざと濡れる。 (70頁)

 

 少し変わったところがある——「呼吸がだんだんせわしくなり、胸の中に酸ッぱい空気がつまってくる。こんな苦しさが私を安心させる。」・「うしろから風を切って自転車が私を追いぬき、カブトムシの背中のように光った尻を見せながら、泥水をはねあげて行く。このときばかりに私は、わざと濡れる。」 なぜ酸っぱい空気が私を安心させるのだろうか、なぜ泥水に私は濡れていくのか、そう思いながら読んでいった。

    坂道を上る所で何故少し変わった描写をもってくるのか、と思うと同時に印象に残った。

 

 

 二つ目はある時、私は役所へ行くといつもよりも多めにお金をもらえて、そして野毛の坂を下っていくのだが、その描写は以下の様である。

 

 いつにない気楽さを感じながら野毛の坂を足どりもかるく私は下って行った。……坂の中腹あたりから商店街が見えはじめたとき、雑然とした店々の看板や装飾が一つ一つ、ある力強い手ごたえをもって眼の中に飛びこんできて、私はふところの中の紙幣が、水から上ったばかりの魚のようにイキイキと躍動するのを感じた。 (74頁)

 

 「私はふところの中の紙幣が、水から上ったばかりの魚のようにイキイキと躍動するのを感じた。」というところの「魚のように」というところが躍動感を出しているなと思った。

 

 三つ目は靴を磨いてもらった後の描写。最後の方にある。

 

 駅の構内に人かげはまばらだった。……私はなにか憂鬱だった。それはふだんに感ずるものとも、またちがっていた。日のかげり出した冷たさの中でプラットフォームの階段を上りながら、さっきの生ま温さがまだ私の腿にのこっていた。……汽車が来るまでには、だいぶ間があった。

 ながいプラットフォームを私は、はじからはじまで一人で歩いた。 (77-78頁) 

 

 「汽車が来るまでには、だいぶ間があった。」や「ながいプラットフォーム」というのが、時間的に・距離的に長い感じが伝わってきて、例えば、(楽しいことは早く過ぎる)という事の反対的な印象——その一つが憂鬱

を表しているなと思った。

 

選評 

 銓衡委員は「悪い仲間」の時でも紹介したが、丹羽文雄、宇野浩二、石川達三、佐藤春夫、岸田國士、瀧井孝作、舟橋聖一、坂口安吾、川端康成である。

 石川達三は以下のようにいう。

 

 「陰気な愉しみ」は感覚だけの作品と云ってもいい。それが抹消神経だけの感覚であって、それだけで終っている。それ以上のものが私には解らないのだ。 (403頁)

 

 岸田國士は以下のようにいう。

 

 安岡章太郎の「悪い仲間」と「陰気な愉しみ」は、いずれも稀にみるすぐれた才能を示した短編小説だが、これだけとしては出来栄えにやや物足りないところがある。 (404頁)  

 

参考 

野毛の写真

 今回出てきた野毛について。野毛山公園というのが坂を登ったところにある。公園内の敷地には動物園があり、高いところにあるためか、高台もある。写真は高台の上ではないが、そこからの風景。

 

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今回読んだもの 

 安岡章太郎、「陰気な愉しみ」 (「芥川賞全集 第五巻」より)、文藝春秋、1982年