津村節子著「玩具」(第53回 (1965年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 津村節子のものは初めてである。以下、話の内容や感想などを述べていく。

 

 

 

話の内容

 これは妊娠を控えた妻の春子と夫の志郎の話である。——

 妻の春子は親に甘えて育ったこともあり、夫にも甘えられることを期待していた。最初は夫の志郎はその余裕があった。が、結核を患いその手術をした後、小説家になることを目指し、妻の春子に対しても我儘になっていく。妻の春子は夫の神経に触れるように気を付ける日常である。

 夫の志郎はある時縁日で金魚を飼いたくなる。妻はそれが厭であった。前に夫が違う生物であるが飼っていたのをうっかり死なせてしまったのもあった。又、臭いも出産が近づいているのもあり、敏感になっているし。しかし夫はそれを飼い、愛す。

 妻はある時ふと行っていた歯医者で鳥羽の某旅館の料理人が鯛の両脇腹を剥ぎ取り、それを刺身として客に出しながら、骨だけのように見える鯛が水槽で泳いでいるという名人芸が雑誌に載っているのを見た。夫は骨に惹かれていた、書いている小説にも骨について書いたことがあった。妻はそれを夫に言おうか迷った。挙句、言ってしまった。夫は妻の予想通りそれに興味を示し、鳥羽に行って、実際にその鯛を見てみたいと言い、行った。妻はもう子供が生まれそうなのにも関わらずである。

 夫は早く帰ってきた。妻の春子は間もなく子供を産む。——妻は無事に赤ん坊を産みたい、と思うというところで終わっている。

 

 子供が実際に生まれた後の話をしているのではなく、生まれる前の感じを描いた作品である。話の内容はざっとこんな調子であるが、他の部分も同じような調子なので、それぞれ紹介するところは紹介していく。

 

夫志郎のまめさの描写

 ここでは夫志郎がペットに対して、いかにまめであるかを拾っていく。

 

 雌の鼠が身籠ると、彼は益々熱心になって、栄養をつけてやるのだと言い、生卵の黄身をとり分けて小皿に入れてやったりした。 (124頁)

 

 夫の志郎は金魚を飼う前は鼠を飼っていた。小皿に黄身をわけるというところがまめである。

 

夫志郎のペットと妻春子の対比

 夫の志郎のペットは金魚の前は鼠であった。それは雌であり、ふっくりとふくらんできた。それを見て春子は何故か羞恥を覚えるという場面がある。つまり、妻は自分の軀があまり妊娠中であるが、ふくらんでいない、という場面である。ここは技巧的に、ペットのふくらみと人間のふくらみの無さをかけていてうまいなと思った。

 こんな場面もある。——

 志郎の丹誠の結果として金魚の肉瘤が盛り上がってきたのに対し、私は……と妻の春子は思い夫の志郎に対して「あなたは、ふとったひとが好きなんじゃない?」 (132頁)と言いたくなったという場面である。

 

  いずれも、生物と人間のふくらみを持ち出していて技巧的にうまいなと思った。

 

妻には妻なりにこだわる所がある

 ここはあまりわかると言うわけではない。しかし妻には妻なりのこだわりがある。まず、臭い。これは妊娠するとそういうこともあるのか。そして人ごみを躊躇う気持ち。ここは夫が金魚がほしい故縁日に行こうと言ったがそれを憚る。又赤ん坊を出すときの声を憚る描写。そこで春子は夫に「アイスクリーム買ってきて」 (150頁)と頼んでいる。

 

夫は鳥羽に行くかどうか

 夫は妻の春子に「(骨みたいな鯛に触発されて)鳥羽に行かないの?」と言われた。最初は「行かないよ」という風に言っていたのだ。しかし次に「旅行はいまでなくてもいい」と言い、次の日になって「初産っていうのはおくれるものなんだってな」と言い、更に「宿泊費はかからないから料理だけでもみたい」という様な事を言っている。それから思い切ったように出発することを言った。 (何れも142頁辺)

 この最初は断っておいて、翌日行きたいというかんじをによわせ、行く決意をするという描写がうまいと思った。

 

なんとも夫の不器用なかんじ 

 鳥羽から早く帰ってきたときに夫は妻に「魚はきれいだったか?」と聞かれて以下のように言う。春子の反応、津村節子の反応も記す。

 

「きれいじゃないな、泳いでいるうちに血がにじみ出して水は濁るし、魚は断末魔の眼でおれを見やがる。新しいはずの魚の身に死臭がするんだ」

 「いや」

 春子は志郎の胸に顔を伏せた。

 「ばかだな。おまえが聞くからじゃないか。こんな話、胎教に悪いよ」

 胎教などという言葉の、なんと志郎にそぐわないことであろう。おなかの子のことを少しでも案じる気持があるならば、出産予定日をひかえている妻をひとり置いて、旅に出かけられる筈はない。

 

「胎教に悪いよ」この言葉はなんとも不器用な印象を漂わせる言葉だなと思った。

 

印象に残ったところ

 ここは細かい。金魚の描写である。

 

 春子は、金魚屋の水槽から立ちのぼる生臭さがやりきれなかったし、魚のくせに赤い色をしていて、鱗が光線の加減で虹色に光ったりすると胸が悪くなるのだ。蘭鋳の稚魚は墨色であるが、背びれがなくてのっぺらぼうなのはやはり気味が悪い。 

  

 志郎は蘭鋳の稚魚を飼おうと縁日でするのだが、それに対しての春子の感想。細かいが印象に残った。

 

感想 

 うまいな、と思うというのが一つ大きな感想である。生物と人間に対する男女の傾向をもってきた、というところにそういうものを感じる。夫婦仲が良くないから、生物に余計時間をかける、という事もこの作品では仲が悪いとまでは言ってないがありうることではあるなと思った。又、夫の小説家なりにこだわるところがあれば妻にも妊娠している故にこだわるところがあるというのが書かれているなと思った。

 夫はなんだかんだ言っても、妻に最後の方はやさしいと見れるというところがこの話の好いところなのかな、と思った。妻が痩せているが、それで生むのか、という風に心配している。又なんだかんだ言って妻を思って早く帰って来る。ここは(当たり前である、と思う人やあまり気が利いてない)と思う人もいるだろうが、印象として優しいじゃないかと思った。

 けれども生まれた後を予想するのであれば、小説を書く、又神経質なところがあるという父をもつ環境は子供にとってはあまり好ましくはないだろうという風に思った。

 

参考

 手元にあるものー津村節子、「玩具」(芥川賞全集 第7巻より)、文藝春秋、1982年

 

 (この作品は第53回(1965年上半期)芥川賞受賞作である。1965年「文學界」に収録。審査員は石川達三、丹波文雄、瀧井孝作、高見順、石川淳、井上靖、中村光夫、永井龍男、舟橋聖一、川端康成である。

 審査員のコメントを見ると前年に津村節子は「さい果て」というものを出しているようで、丹波文雄は「「さい果て」よりも「玩具」は小粒だ」という風に書いている。 (「芥川全集 第7巻」参照)

 石川達三は「夫婦の生活を生活を二人きりの場で丹念に描いている。その限りではよく書けた作品だが、それ以上のものがない。そして文学とは(それ以上)のものを要求するものだと私は思う。」と書いている。 (「芥川全集 第7巻」参照)

 井上靖は「津村節子氏の「玩具」は前作「さい果て」に見たはっとするような冴えた箇所はなかった。併し、夫婦間の心理的機敏を描いて、この作者はいささかの危気もない。」と書いている。 (「芥川全集 第7巻」参照) )