西村賢太著「苦役列車」(第144回 (2010年下半期) 芥川賞受賞作)を読む

 この本は6、7年ほど前に読んだことがあり、一応の思い入れはある。前に読んだときに思ったことも交えて、感想を書いていく。

 

 

 話の内容

 主人公は貫多という。中卒で父が犯罪を犯してしまった。貫多は日雇いの荷物の積み下ろしのアルバイトを見つけた。そこでは日下部という上京してきた専門学校に通うバイトがおり、貫多は彼に彼女を見せてくれないかと頼んだり、金を貸してくれるよう頼んだ。酒癖の悪さがあり、貫多と日下部は距離をとるようになった。日下部のほかにもバイトは数人いたが、貫太はあまり仲良くなることはできなかった。……やがて日下部はバイトは休みの期間だけやるということに決めていたためやめてしまった。貫多はバイト先で喧嘩をしてしまい、出入りが厳しくなった。そしてやめることにした。日下部は郵便屋に勤めだしたようだ。貫太は依然、前と同じような仕事を見つけ、それをすることにした。

 

 感想 

1. 印象に残ったところ

 この作品は前にも読んだことがある。前に読んだときには(移動が多い小説なのか)という風に思っていたが、読みかえしてみるとそう移動する場面が多いと言うわけではない。

 が、印象に残ったところはやはり移動の所である。例えば20頁のところである。

 

 そして七時を僅かに過ぎたところで、かの荷役会社に駆け込むと、今日の彼の派遣先は平和島の冷蔵団地らしく”七番”の車である旨を言い渡される。その頃になると貫多も優に五十人は積める、やや大型のマイクロバスを見ただけで、この日に課せられる作業の人海的な内容がおおよそ察せられるようになっていた。

 

 上の所は印象に残る。マイクロバスにバイトを詰め込んで出発することは本当にあるのか?と思いながら読んでいったが、本当にあれば凄い光景だろうなという風に思う。

 上記「人海的な内容」という単語は短いが、強烈な用語だと思う。

 

2. バイトは近年の芥川賞の主流なのか

 なんか最近芥川賞をとったものもバイトを題材にしただったような気がする。未だバイトを扱ったものをたくさん読んだという気はしないが、この前読んだ芥川賞受賞作「八月の路上に捨てる」はバイトの様子が出てきたのでもしかしたら近年の主流なのかもしれない。というよりバイト中に人間らしさのようなものが出てくるのかもしれない。

 この作品でもリアルなバイトの感じが出てきた。以下の所である。

 

 軍手は最早、用意すらもしてこなくなっていた。どうでそれは、ものの数分も経たぬうちに冷凍タコの水分でべシャベシャになって、付けても付けなくてもさほど変わらないし、はめれば却って手首がダルくなってくる。手のひら側の一面にゴムイボの滑り止めの付いたやつを持参してくるものもいたが、通常のより些か値の張るそれをしばしば購めるだけの余裕は貫多にはない。 (24頁)

  

 これは荷物積み下ろ紙の時の手袋の話。「タコだと水分でべシャベシャになって、……」というところはリアルだなと思った。

  

 近年の芥川賞受賞作にはバイトが出てくるのかという疑問はもう少し調べていきたい。

 

3. 全体的に思うこと

 最後の解説の所で石原慎太郎は次のように書いている。

 

 情報の氾濫しきった現代では異常なるもの、奇異なるもの、非道なるものは大方その非日常性を淘汰され異形なるものとしての魅力を持ち得ない。作家のことさらの工夫は読者の貪欲な希求に応えようとすればするほど作為的なものとなり奇矯に落ち、推理小説やホラアといった領域の作品としては成り立ち得るが、芸術としての小説にとって不可欠な心身性をかち得ることが困難になっている。 (167-168頁)

 

 上に引用したところは要は石原慎太郎は「現代は情報にあふれ読者に応えることが心身性をもっては困難である。」という様なことをいっている。

 が、西村賢太のこの「苦役列車」はその心身性の元である人間を書いたといわしめるような作品だと思う。読んでいて安心するところがある。(ああ、読めている)と自然におもうところもその要因の一つだろうが。

 何かの事毎にできたらこの「苦役列車」を読んで人間にはこういうところもあるというのを確認しておきたいと思う。そんな魅力がある。強いて言えば、二度目の読書なので、一回目に読んだときに比べ自分に迫るものがあまり無くなったという風には感じたが。

 

参考

手元にある物ー西村賢太、「苦役列車」、2012年、新潮文庫

 

(「苦役列車」は2010年下半期の芥川賞受賞作である。2011年一月新潮社より刊行された。)