開高健著「裸の王様」(第38回 (1957年下半期) 芥川賞受賞作)を読む

 開高健のものは初めて読んだ。以下、話の内容や感想等を述べる。

 

 

話の内容

 大田太郎が山口の紹介でぼくの画塾に来ることになった。山口は小学校の教師をする傍ら自分でも絵をかいている男である。太郎は画塾の中でも変わった存在である。児童本やポスターを見ても顔を動かさず、無口で内気で神経質そうな少年で絵に人間が出ない。太郎の父親は絵具屋の社長で儲けのことばかり考える人物であり、太郎の母親は太郎に押しつけがましいところがある。

 太郎を塾に引き受けたぼくはアンデルセンの童話の挿絵を交換しようとデンマークに申し込むことを思いつく。それは単純に外国の児童画を入手したいというぼくの宿願からだった。が、その件で太郎の父親が関わってきて賞金のでるコンクールにしてしまう。ぼくはそのことに反対するが。

 大田太郎は塾でもきっかけをみつけ、人の絵を描くようになってきた。ぼくはその中の画の、「越中フンドシをつけた裸の男が松の生えたお堀端を歩く」絵を児童画のコンクールの審査会に持って行くことにした。けれども、そこで選ばれる画はみな同じようなものばかりだった。どの一枚をとってもそのまま絵本の一頁になりそうな、可愛くて、秩序があって……。

 ぼくは山口に向って二枚の画をみせた。一枚はこのコンクールに入選したもので、何か見ながら描いたもの。もう一つは太郎のもの。しかし太郎が描いた絵だということは山口には伝えない。山口は太郎の画を見て言った。—「このコンクールがあったおかげでこうやってこの子は絵を描いた。だからその意味でコンクールは必要だったんだ。」ぼくは周りの人たちを見た。愉快そうで、安心しており、くつろいでいる。ぼくはこの絵は太郎が描いたものだとばらすことにした。山口は色を失った。審査員たちは山口を見放し、背を向け去っていった。ぼくは腹を抱えて哄笑した。

 

比喩がうまい

 随所に比喩が出てきたがそれぞれうまいなと思った。以下の様である。—

 

太郎が顔色を動かさないかんじをみたぼくの感想ー

 両膝にきちんとそろえておかれた彼のきれいにつまれた爪をみて、ぼくはよく手入れのゆきとどいた室内用の子犬をみるような気がした。 (9頁)

 

 ぼくが太郎に理屈的なことを言ってしまったと思った後の場面ー

 いってから、しまったとぼくは思った。この理屈はにがい潮だ。貝は蓋を閉じてしまう。 (17頁)

 

 太郎の父の言葉の様子をみてぼくが比喩したものー 

 彼の言葉はよく手入れのゆきとどいた芝生のように刈りこまれ、はみだしたものがなく、快適で、恵みにみちている。 (32頁)

 

 大田家をぼくがまるで太郎のようだと言い表したものー

 邸の静寂がふたたびぼくにもどってきた。この家は考えると太郎そのものであった。美しくて、整理され、しみや埃りもないが空虚であった。部屋は死んだ細胞だ。みんなそのなかに隔離されて暮らしている。 (35頁)

 

まるで主人公のぼくは心理学者の様だった

 何かを教えるという立場であれば仕方ないかもしれないが、主人公のぼくが塾生に教える、あるいは塾生の様子を感づく様子というのはまるで心理学の本に出てくる心理学の先生の様であった。以下のところにそんな事を感じた。

 

 この日は二枚だけ描いて彼は帰っていった。フィンガーペイントの分は完全ななぐり描き、ポスター・カラーの分もほとんど形をもたぬ乱画にちかいものであったが、いずれも赤を使った点でぼくの注意をひいた。画そのものにも、また彼の叙述内容にも、ふつうの子供より彼が感情生活で数年おくれている事実はまざまざと露呈されているが、経験によってぼくはその赤を怒りのサイン、そして攻撃と混乱の表徴と考えた。太郎はなにものかとたたかったのだ。 (42頁)

 

 ぼくは赤に太郎の肉体を感じたのだ。環境に抵抗して、いつどの方向へどんな力で走りだすかわからない肉体を、いよいよ彼も回復したのだ。ぼく以外の人間にとってはしみでしかない画用紙をまえにぼくはぽっかりとひらいた傷口を感じた。血は乾いて、壁土のように、白い皮膚にこびりついていた。ぼくは夕方のアトリエで、子供たちののこしていった悪臭をかぎつつ、さらに傷口を深める方法をあれこれと考えた。 (43頁)

  

 例えば上に引用したところであれば、赤を見て~のサインだ、又(赤いからこれは肉体だと感じる)というところに心理学者っぽいなと思った。心理学者っぽく、登場人物の先生的な役がなるのを批判しようとは思わないが、一方(その先生が例えばこの話であれば絵に対して十分な理解がなければ、その心理学的の先生的な様子も残念な感じになりかねない)と思った。この話が残念な先生風だという風に思わないが、なんか心理学の先生っぽいな、という風には思った。

 

感想

 あまりこの話は太郎そのものが問題を抱えているというよりは、周りの人間、例えば両親が太郎に対して何か問題があるのか、という風に思った。それに影響されて太郎は問題を抱えているように見える。が、意外とすんなりと太郎の問題というのは和らいで行っているように思えた。そこらへんは物語全体の尺の長さともかかわって来るだろうと思う。私的には太郎がどういう風に問題を抱えていたのか、外部に持ち出すというよりも、より内部に~という問題がある、というものをみたかったが。

 この話はコンクールであったり、賞であったりを批判している作品のように感じ取った。特に最後の方は。審査会にいた寛いだかんじの大人たちを裸の王様だとするのであれば、面白いと思ったが……。が、必ずしも賞やコンクールが悪いといったわけではないと思う。(それをきっかけに物語が広く読まれることによって、つまり知名度という点では広がりがあり、それから何か感じる人が増えるだろうと思うからだ。)けれどもこの話はそういうコンクール・賞をほめるという物語ではないので、方向性が批判的に向かうことはやむを得ないと思う。 

 子供の純粋さというのは本当に難しいと思う。この作品の中には、例えば60頁当たりには太郎には敢えて外国風、絵本風の絵を子供に描かせようとすることをぼくは避け、もっと本質的な例えば「権力の虚栄と愚劣」ということを教えようとする。しかし本質的なものというのは何か? それが何歳で現れ、また「塾に通っている」ということだけで(子供にこれは教え、これは教えるべきではない)とする判断も難しいなと思った。

 この話を読んだだけでは開高健を理解することは難しい。絵画に対してどの程度の理解がある人かもわからない。が、面白いことを題材にする人だなと思い、それから話の口調は好ましかったのでほかの作品も読んで検討していければと思った。

 

参考

手元にある物ー開高健、『裸の王様・流亡記』、角川文庫、1974年。カバーは黒く印象的だ。タイトルと著者名のところが〇でつながれている。なかなか見かけないものである。

 

(第38回(1957年下半期)芥川賞受賞作。選考委員は中村光夫、石川達三、瀧井孝作、佐藤春夫、川端康成、井上靖、丹羽文雄、舟橋聖一、宇野浩二。)