志賀直哉著「流行感冒」(岩波文庫)を読む

 志賀直哉の作品は「城の崎にて」や「小僧の神様」をたまに読み返す程度。読む度にこんな場面もあったなと思う。

 ふと読みたくなり岩波文庫の『小僧の神様 他十篇』を見ることにした。あとがきでそれぞれの収録作品に何を思って書いたか、作品との関係性などが志賀直哉によってさらっと書かれている。それで今回はあとがきから先に読んだ。「流行感冒」のあとがきが興味深いと思った。以下の様——

「流行感冒」(大正八年)

 事実をありのままに書いた。この小説の主人公は暴君であるが、手一杯にわがままを振り回しながらなお常に反省しているところがあり、だいたいにおいて女中を許そうという意志があり、そしてその機会はのがさず捕えているところに自分は興味を感ずる。子供の病気に対する恐怖心は今から思えば少し非常識であった。この小説の左枝子という娘の前後二児を病気でとられた私はこの子供のためには病的に病気を恐れていたのだ。

 この中で特に暴君が出てきたり反省しながら女中を許そうとする……というところに惹かれるところがあった。

 

 内容はこのあとがきどおりだ。最初の子が死んでしまったため私ー夫は娘の左枝子の健康に神経質になり気を配る——厚着をさせたり、他の人が左枝子にものを食べさせようとするのを嫌う、流行性の感冒が流行ると左枝子を運動会に連れていかないようにする……。

 その気の配りは自分の家に感冒がこないよう女中の石にまで及ぶ——女中が町へ行くときはぐずぐず話し込んだりせぬようやかましくいう。けれども女中の石は薪をもってくるといいつつ芝居を見に行った。行っただろうと問いただすが行っていないと嘘を言った。そのため女中をやめさせることにしようとしたが、妻がおいてあげようというのでおいておくことにした。夫も石に汚名をつけて出させるようなことは嫌だったのだ。

 その後、たまたま植木屋に一家が流行感冒をうつされたが女中の石はよく働いてくれて、おいといてよかったと思う。

 こういう話だ。

 

 感想は自分は女中というものに縁がなく、本やテレビでしか見たことがないのだがこの作品では女中の石がやめるとき母親と一緒に暴君ー私に挨拶に来る場面があり、女中は母と一緒に来るものなんだ、と思った。

 それと、最初の方では女中の存在はあったものの、子どもに気を配るというのが話の中心だったと思うのだが、それが話が進むうち女中に変わっていっているな、と思った。相当子どものことを心配する——運動会にもいかせないし、厚着もさせるし、これは子どもが何か病気したら、暴君はどんな反応を見せるのか、と注意して見ていたのだが意外にも植木屋に一家が感冒をうつされる場面はひょいひょいとうつっていった感じがしてあっさりしているなという印象をもった。というよりもむしろここの場面では女中の石がよく働いたというほうが際立っていると思った。

 

 参考文献

志賀直哉、『小僧の神様 他十篇』、岩波文庫、1994年