芥川龍之介の作品を読み漁る——「お時儀」、「あばばばば」

「お時儀」

保吉が避暑地のホームでお嬢さんに会いお時儀をしたくてたまらなくなったという話。保吉は反射的にお辞儀をしなくてはならないという焦燥に駆られてしまう。このかんじ、なんとなくわかるような気がする。お時儀をしたのが嫌だからと言って砂浜に行って煙草を吹かすのは変わっているような気がする。煙草はわかるのだが、砂浜か……。出てくる煙草はまた珍しい。今回でてきたのはグラスゴーの煙草の様。

この話は三十歳の保吉が回想するという形のものなのだが、このお嬢さんと出会った体験をして憶えているのは恋愛の感覚というより、保吉を襲った薄明るい憂鬱とある。薄明るい憂鬱という表現は初めて見た。

 

「あばばばば」

この主人公もまた保吉。海軍の学校へ赴任した保吉はある店に入ると、ある女がいて、恥ずかしそうにしていた。娘の様だった。保吉が煙草を買うにしてもどきまぎしていた。その女に気に入ったのもあり、保吉はずっとその店に通っていた、しかし女の消息は無くなった。その女はやがて子どもを産み、その店にきていた。恥じらいなく「あばばばばばば!、ばあ」と子供をあやしていた。度胸もつき、母となり女はもうあの女ではなかった。———————————

なんとも強烈な言葉「あばばばばばば!」。濁音を何度も重ねるとすごい。

母になることで逞しくなったはいいがその反面、恥じらいをなくし…。芥川的には、この作品では「……度胸の好い母の一人である。一たび子のためになったが最後、古来いかなる悪事をも犯した、恐ろしい「母」の一人である。この変化はもちろん女のためにはあらゆる祝福を与えても好い。しかし娘じみた細君の代りに図々しい母を見出したのは、……保吉は歩みつづけたまま、茫然と家々の空を見上げた。」とあって、女的にはよいことなのだろうが、娘っぽくはなくなって少し残念そうだ。少し趣は違うのかもしれないけど男が父親になってそれらしく振舞われることにその子供はいやらしさを感じたという場面のある三島由紀夫の「午後の曳航」を思い出した。この母親らしく、あるいは父親らしく……~らしくなることがある他者にとって嫌だというのは確かにあるよな、と思った。

この作品も「あばばばば」に引き続き、見慣れない煙草が出てきた——朝日という煙草…聞いたことない。また、煙草だけでなくココアも見慣れない——アメリカのココアfry、オランダのdroste。芥川の作品を読みながら、文中に出てくる見慣れない品々を楽しんでいる。

印象に残ったところはある時、保吉が銀座尾張町で電話が出るのを待っている間に「佐橋甚五郎」という森鴎外の短編を読んでしまったというところ。短編が短いのか、それとも保吉の読むペースが異様に速いのか。

 

参考 芥川龍之介、『芥川龍之介全集5』、ちくま文庫、1999年