芥川龍之介の作品を読み漁る——「たね子の憂鬱」

「たね子の憂鬱」

たね子の夫の先輩にあたる実業家の令嬢の結婚式の会場が帝国ホテルだと知ったたね子は洋食の食べ方の作法というものを知らず夫に稽古のため銀座の裏にあるレストランに連れて行ってもらったということが中心にかかれた作品で、その後は帝国ホテルからの帰り道、食堂で見た男を軽蔑したが同時に羨ましさも感じた、本所のどこかのお弁当屋の娘が気違いになった、たね子が線路へ飛び込んだ夢を見たことなどが続く。

相変わらずと言っていいのかわからないが、芥川の作品にはよく錯覚というものが出てくる。この作品でもたね子が帝国ホテルに入った途端、緊張の為か大谷石や煉瓦を用いた壁に大きい鼠がいたような……という場面がある。印象に残ったところはたね子の眉毛に注目していることだ。以下、描写を羅列していく。夫はタイを結びながら、鏡の上のたね子に返事をした。もっともそれは箪笥の上に立てた鏡に映っていた関係上、たね子よりもむしろたね子の眉に返事をした——のに近いものだった。……夫はチョッキへ腕を通しながら、鏡の中のたね子へ目を移した。たね子という云うよりもたね子の眉へ。……たね子が線路へ飛びこんだ夢を見たシーン—「いいえ、轢かれてしまってからも、夢の中ではちゃんと生きているの。ただ体は滅茶苦茶になって眉毛だけ線路に残っているのだけれども、……やっぱりこの二三日洋食の食べ方ばかり気にしていたせいね。」……ホテルで食事をした次の日の朝、夫が会社へ出かけた後——…もう一度番茶を飲もうとした。すると番茶はいつの間にか雲母に似たあぶらを浮かせていた。しかもそれは気のせいか、彼女の眉にそっくりだった。ここで意味する眉というのがどういうことなのかよくはわからないが眉を読む、愁眉を開く、眉毛を読まれるなどという表現があるくらいで、敢えて眉という顔の一部分を強調することで何か心配事や不安を象徴しているようだ。何故だか、人の顔をみるとき目を見るのか眉を見るのか鼻を見るのか、口を見るのかということを意識しすぎるとどこを見ればいいのかわからなくなってしまうことを読みながら思い出した。最近の小説でもある華やかな、あるいは自分が普段いかないようなところに行かなければいけない、そしてその準備をせねばならないという設定はよくありがちだと思った。

 

参考 芥川龍之介、1991年、『芥川龍之介全集6』、ちくま文庫