芥川龍之介の作品を読み漁る——「河童」、「浅草公園——或シナリオ——」

「河童」

第二十三号が三年前の夏、上高地の穂高山を登ったところ河童に出会い共に生活し、その河童との生活を精神病院の院長やs博士に喋るという話。第二十三号は次第に河童の言葉を覚えこっちの世界に帰ってからもあの河童の世界に行きたいというのではなく故郷として帰りたいというほどになり、それほど親しみを持たせるような何かがあるのかと思った。その河童の世界は~党など制度的なものや倶楽部や音楽界など、あまりこちらの世界とは変わらないのではと思うものもある。……河童の世界の大寺院にはニイチェやトルストイ、国木田独歩などの半身像が置いてあり、また、東京の川や堀割りには河童がいるとあるので人間との関りもあるようだ。描かれている河童はいろいろ独特で、そういう河童もいるんだなと思った。——河童は人間が正義とか人道とかいうと腹を抱えて笑い出す……お産をするとき父親は電話でも掛けるように母親の生殖器に口をつけ「お前はこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えたうえで返事をしろ。」といい、胎内の子供が生まれてきたくないというと産婆の河童は腹に注射し縮ませる……死刑などはせず、ただ、罪名を言っただけで河童は死ぬ……蛙だと言われると死んでしまう……足が速い、場所によって色を変える。ある月の好い晩、詩人の河童のトックが第二十三号と歩いていると夫婦らしい雌雄の河童が二、三匹の河童と一緒に晩餐をしておりそれをみながらトックは自分のことを超人的恋愛家といった後で羨ましいなと言ったのに対し第二十三号は矛盾しているとは思わないの、と返したがその後トックは「あすこにある卵焼きは何といっても、恋愛などよりも衛生的だからね」と返したところが意外性があり面白かった。

 

 

「浅草公園——或シナリオ——」

読みながらなんとなく星新一の「背中の音」—背中のいぼを触るとガチャッと音がし、チャンネルが変わるようにシーンが変わる作品—を思い出した。そのくらいシーンが良く切り替わり、まとまった話という訳ではない。

舞台は浅草の浅草寺周辺。仲店には十三歳の少年と田舎臭い父親が玩具屋の前に立ち止まっていて、少年が猿をみていると父親とはぐれてしまう。少年は父親を捜しているのかは分からないが、仲店をあれこれ回った後劇場や映画館やカフェ、病院に行き、次第に涙を流し疲れ切っているという作品。<xyz会社特製品、迷い子、文芸的映画>と書いた板であったり「急げ。急げ。いつ何時死ぬかもしれない。」という文章があったり少年の危機感を煽るような箇所が所々ある。父親かと思ったらマスクをかけた人だったということや上半身だけ見えたという描写は何か言おうとしているようで気になった。~の上半身……から始まる文はリズムがいいなと思った。色々と少年が父親を探し回り、また、様々な店を回っていたが、最初と最後に浅草寺の仁王門の提灯が上へあがり、仲店を見渡すという文章があるので浅草寺があって様々な人間の出来事が成り立つ——浅草寺周辺にはこういうことが起こるんだということをかいているのかなと思った。

印象に残った表現をのせる。マスクに口を蔽った、人間よりも、動物に近い顔をしている。何か悪意の感ぜられる微笑。……「目金を買っておかけなさい。お父さんを見付けるには目金をかけるのに限りますからね。」「僕の目は病気ではないよ。」……黒い一枚の掲示板。掲示板は「北の風、晴」と云う字をチョオクに現している。が、それはぼんやりとなり、「南の風強かるべし。雨模様」と云う字に変ってしまう。……焼き芋を食っている背むしの顔……金庫をこじあけている西洋人の人形。ただしこの人形の手足についた、細い糸も何本かははっきりと見える。……斜めに見た造花屋の飾り窓。造花は皆竹寵だの、瀬戸物の鉢だのの中に開いている。中でも一番大きいのは左にある鬼百合の花。飾り窓の板硝子は少年の上半身を映しはじめる。何か幽霊のようにぼんやりと。

 

参考 芥川龍之介、1991年、『芥川龍之介全集6』、ちくま文庫