幸田文著「濃紺」を読む

幸田文の本は「おとうと」をこの前読んだばかり。「濃紺」は講談社文庫の『台所のおと』に収録。短編は全部で10個あったが、むずかしいものが多かった。ひとつだけ紹介。

 

「濃紺」 

あらすじ きよが息子の家に行く。そこでは、孫たちが喧嘩し始めた。というのも、下駄屋の名前を何と呼ぼうか、言い争っていたのだ。ふとそれを聞いた、きよは、三十年前のことを思い出した。その当時、きよにとって、呉服屋でもらったお金で、下駄を買うのが楽しみだった。中元に使うのだ。すげるのを待つ間に繁柾というのか、糸柾というのか、女物の履物があった。癖があった。そして、それは固いもので、決して歩きやすいというものではなかった。しかし、繁柾を履き続けた。やがて、甲はうすくなり脚も短くなってきた。それで、下駄とは別れることにし、仕舞った。

三十年の時を経た癖下駄は、手に軽く、いい紫をだしていた。記憶の中だけ、個個としてある下駄は、今見れば柔らかみがあった。

感想 下駄を履いたことは無いので、より惹かれるものがある。下駄がなにでできているのかわからないけど、木と鼻緒の単調さというものが魅力的だ。といっても、下駄の裏側の歯は段差があったり、いろいろと複雑なのかもしれないが。

近所の歯つぎ屋さんのおじさんが変わるにつれて、鼻緒がえんじからしそ紫へ、しそ紫から濃紺へ、——さらに三十年ぶりに手にしたときには深い紺になっている、色の移り変わりがよかった。それにしても履いてない時期があるとはいえ、三十年物のはきものがあるのかすごいな。木は丈夫だ。この物語にでてくる青年もそうだが、幸田文の文には、哀しさをもった人やものがよく出てくると思った。

 

この前は向田邦子の「下駄」という作品を読んだが、それは顔の形が下駄に似ているというもの。下駄を扱った作品にもいろいろあるようだ。

 

参考 幸田文、『台所の音』、集英社文庫、1995年