井上靖著「猟銃」・「闘牛」を読む

前にも読んだことはあり、又読み返したいと思っていた本。「闘牛」は何となく頭に残っていたが、「猟銃」はすっかり抜けていた。全体の文の印象として、どっしりしていて、漢字が多い。他にも「比良のシャクナゲ」というのも入っていたが、今回は読まなかった。

 

「猟銃」

ざっくりとしたあらすじ

主人公が、とある機関誌に「行きかう猟人の後ろ姿に惹かれた」という趣旨の詩を書いたら、その猟人本人(三杉)が「それは私だ」と言って、「そのような詩を書く人に、ぜひ、私に宛てられた手紙三通を読んでほしい」という手紙を主人公に送ってきた。

三通の手紙とは、それぞれ三杉(狩人)の愛人彩子とその娘嗇子と三杉の妻みどりのものである。彩子は自殺で死んでしまったが、その前日に彩子の日記を薔子が読んだことで、kという結婚相手がいた彩子は三杉と愛人の関係にあったことを知ってしまうが、そこには様々な苦悩があった……。

感想 今回もあまり頭に入って来なかった。まず、言いたいのは、三杉という猟人はよくも、詩を書いたという接点があるだけの人に自分に宛てられた手紙を送ったなということだ。相当孤独で、ほかに見せる相手がいないということなのか。

最後の方に、人はそれぞれ、蛇を持っているという話は、星新一の「やつらのボス」ー老人が弱っているとき、「やつらが来る」といって、蛇が来て老人を食べ、そこには老人の代わりに少年がいたという話ーをなんとなく思い出した。また、愛するのか、愛されるのか、というのはフロムの「愛するということ」を思い出した。この二つ(蛇の話・愛す、愛される)はそれぞれ、物語の最後の方に出てきて、あまり触れられていたという訳ではなかったので、中途半端な感じがした。

印象に残った表現 墨をたっぷりと筆に含ませ、封筒を左手に持って、一気呵成に筆を走らせたと思われるのだが、その筆勢には、いわゆる枯れたとは違った、妙に冷たい無表情と無関心が覗いていて、言い換えれば、その自在な筆勢にのっけからいい気持ちになっていない、いかにも近代人らしい自我も感じられ、世の達筆なるものの持つ俗臭や嫌味はなかった(p12)。/前夜母さんの日記で読んだばかりの、あの、罪、罪、罪とエッフェル塔のように高く積み上げられた罪の文字は……(p32)。/一冊の大学ノートはお水をかけようとバケツを取りに行っている間に、小さい旋風が、枯葉と一緒にどこかへもっていってしまいました(p38)。/チューブから搾ってなすりつけたようなプルシャンブル―の、真冬の、陽に輝いた海の一点(p49)。/家庭というより城砦と呼んだ方が適切(p51)。

 

「闘牛」

感想 これは、編集局長のtが、不断はやらない阪神球場で闘牛大会をすると言う興行にかかわりを持つが、それをするにあたって様々な困難があったという話。

実際に牛が戦っている場面はほんの少しで、興行が大部分。悪天候の中、闘牛をするといったものは結構ベタな感じがした。若い社長のmが、「清涼」という広告を出したいと申し出てきて、断られたにもかかわらず、興行があまりうまくいかなかった後にも再びきて、「花火の中に「清涼」引換券をいれてくれないか」と言ってきたしつこさには笑った。嫌な感じがした。闘牛大会を開くにあたって、いかに困難なのかが伝わってきたのが次の一文ー「リングを造る監督役にW市の協会からせき立てて人を招んだのだが、人が来たら材料の方がなかなか来ない。その竹がやっと今朝着いたら、肝心の監査役のその男は、昨日から風邪で寝込んでいるというのである(p126)。」ーそうか、竹を用意することまで考えているのかと感心させられた。

 

 二つとも、あまり褒めたことは書いていないが、なぜかまた読みたくなる。

 

参考 井上靖、「猟銃・闘牛」、新潮文庫、2011年