辺見庸著「自動起床装置」(第105回芥川賞受賞作)を読む(変わったアルバイトについての話)

 辺見庸の「自動起床装置」は第105回の芥川賞をとった作品である。今回はこれと、大江健三郎の「奇妙な仕事」を読んだ。どちらも変わったアルバイトについて書かれている。それぞれ感想などを書く。まずは辺見庸の「自動起床装置」から。

 

 「自動起床装置」は、起こし屋というアルバイトについての話である。起こし屋とは、ある会社の宿直者を起こす係である。しかし、あとから自動で人を起こす装置が導入される。起こすのは装置でもできるのか、あるいは人間がすべきなのか、そういったことが書かれている。

 なかでも印象にのこったところは、主人公の僕よりはバイト歴が長い、聡というキャラクターが樹木に関心があって、眠りと樹木とを結びつけることをよくしている、ということである。たとえば、バンヤンジュという木は一個体なのに、まるで林のように大きくなり、夏でも涼しく、昼寝にはもってこい、ということであったり、寝言は葉っぱが地上に達するまでの状態の気がする、ということであったり。あまり樹木と眠りについては考えたことはなく、実感はわかないが、面白いと思った。また、樹木に関していえば、キリストのはりつけに使われた樹はポプラ、という一説がある、ということを思い出した、ということが書いてあって、そうなのか、と思った。この話で出てきた、聡のもっていた本は「原色世界樹木図鑑」というもののようだ。実際あれば、読んでみたい。

 起こし屋というのは、起こすこと単独で存在するならば変わったアルバイトだと思う。なにかそれを引き立てるような描写があった。今回は音について。以下引用。

 シャリシャリ、シャシャー......。

 シャリシャリ、シャシャー......。

 このビルにはいつもなにかが遠慮がちにこすれるような音がしている。ひとつでなく、たくさんの乾ききったものたちが間断なくなにかしている音である。 (「自動起床装置」、p.14)

 この「シャリシャリ」や「シャシャー」という音は、あとにもいくつかでてくる。最後まで結局何をあらわしているのか、というのはつかめなかったが、不気味であり、妙な雰囲気を出していると思った。

 

 次に読んだ話は、大江健三郎の「奇妙な仕事」という話である。こちらも名前の通り、変わった仕事について書かれている。

 主人公の大学生の僕が犬を殺すアルバイトを見つけ、そこでの様子がかかれている。アルバイトには僕のほかにも私大生、女子学生、犬殺しがおり、それぞれ、犬を囲いの中へ連れてくる、犬を棒で倒す、犬の皮の整理をする、などの分担が決められている。私大生は犬を殺すことが嫌だ、と思っているシーンがあり、そこではまもなく殺す犬に残飯をあげようとしている犬殺しに、それはやりきれない、ということを言っており、そこが印象にのこった。

 

 「自動起床装置」では妙な雰囲気をひきだす音について書いたので、こちらもそれについて。書き出しの文章。

附属病院の前の広い舗道を時計台へ歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向うに建築中の鉄骨がぎしぎし空に突きあたっているあたりから数知れない犬の吠え声が来た。風の向きが変るたびに犬の声はひどく激しく盛上り、空へひしめきながらのぼって行くようだったり、遠くで執拗に反響しつづけているようだったりした。 (「奇妙な仕事」、p.8)

  風の向きの変わりようで犬の声がかわっていったり、犬の声が反響する様子が書かれていた。

 

 大江健三郎の作品はそれほど読んだわけではないが、練りに練った比喩が頭にのこる気がする。今回は二つある。

 しかし三月の終りに、学校の掲示板でアルバイト募集の広告を見てから、それらの犬の声は濡れた布のようにしっかり僕の躰にまといつき、僕の生活に入り込んで来たのだ。(「奇妙な仕事」、p.8)

 

まっ白く皮を剥がれた、こぢんまりしてつつましい犬の死体を僕は揃えた後足を持ち上げて囲いの外へ出て行く。犬は暖かい匂いをたて、犬の筋肉は僕の掌の中で、跳込台の上の水泳選手のそれのように勢よく収縮した。(「奇妙な仕事」、p.12)

 

 

 以上、変わったアルバイトについての話を二つ読んだ。

 

今回読んだもの

辺見庸、「自動起床装置」、文集文庫、1994年

大江健三郎、「奇妙な仕事」(『見るまえに跳べ』に収録されている)、新潮文庫、2016年

 

自動起床装置 (文春文庫)

自動起床装置 (文春文庫)

 

 

見るまえに跳べ (新潮文庫)

見るまえに跳べ (新潮文庫)

 

 

大江健三郎著「空の怪物アグイ—」を読む(空間的な高さについて書かれた小説を読む)

 前に菊池寛の「屋上の狂人」を読んで、屋上についていろいろと書いていった。その記事では屋上では変な人が集まりやすい(たまたまそういう話が集まっただけだが)、一方でイメージはもっと娯楽的だ、ということを書いていった。屋上といえば、高い、それでは高さを使った話もあるのではないか、ということでいろいろ読んでいった。以下、それぞれの感想と、最後にすこしのまとめを書く。

 まずは大江健三郎の「空の怪物アグイ—」を読んだ。これは自分の赤ん坊が脳ヘルニアだと医者に診断され、赤ん坊を殺したdという音楽家がいて、その死んだ赤ん坊を解剖したら実は単なる畸形腫にすぎず(医者の誤診)、それにショックを受け、空に幻影(カンガルーほどの大きさのアグイ—)が見え始めたdが東京へ行くときにバイトで付き添うことになった十八歳のぼくとdについて書かれた話である。雇われたぼくはアグイ—を見ることができない。印象にのこったのは、dが生活で失ったものが空に浮遊している、というところを言っているところ。以下引用。

 「きみはまだ若いからこの現実世界で見喪って、それをいつまでも忘れることができず、それの欠落の感情とともに生きているという、そういうものをなくしたことはないだろう? まだ、きみにとって空の、百メートルほどの高みは、単なる空にすぎないだろう? しかしそれは、いまのところ空虚な倉庫ということにすぎないんだ。それとも、今までになにか大切なものをなくしたかね?」 (p.150)

 空虚な倉庫というのがいいとおもった。

 自分は、ヒーローや妖怪が空を飛んでいる、というのは見慣れているのもあり、そこまで疑問に思わない。そういうキャラクターなのだと思う。一方、まだあまり目にしない(耳にしない)ものが空を飛んでいるとなぜだ、というふうに思う。例えば前にも紹介したが、シャガールの「散歩」、「誕生日」 、「町の家」という絵では人物が飛んでいる。またはビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」という曲のルーシー。なぜダイヤモンドとともにルーシーは空にいるのか、ということに疑問をもった。

 不思議な話だと思った。

 

 つぎにサルトルの「エロストラート」(新潮文庫、窪田啓作訳)という話。これも空間的な高さについて、がでてくる話だと思う。内容は主人公のおれが、殺害予告を企てる、というものである。最初のシーンでおれがある高みから人間を見おろす、というシーンがある。以下引用する。

 七階の露台。おれが全生涯をすごさねばならなかったのは、ここだ。精神的優越をささえるには物質的象徴をもってしなければならない。それを欠けば、精神的優越はくずれ落ちるのだ。さて、正直に言って、人間どもにたいするおれの優越とは、なんだろう? 位置の優越。[...]ときには通りへ降りていかねばならなかった。たとえば、事務所へ行くために。おれは息がつまった。人間どもとおなじ平面に立つと、そいつを蟻と見ることは、ひどくむずかしくなる。やつらは、さわるのだ。 (p.148-149) 

 ここには位置が高いと優越感を感じる、ということが書いてある。また、地上へ降りると、蟻のように見えていた時とは違い、人間はさわってくる、ということを言っている。たしかに高い時にいるときは、下にいる人たちが小さく見える。優越感、というのもわからなくはない。たとえば身長が自分の方が高い、と言う場合は、さほど高くなければなんとも思わないが、展望台から見下ろすくらいの高さの差があると、高さで圧倒しており、優越感のようなものを感じる、というのはある。サルトルが精神的な優越と物質的な優越を区別しているのがおもしろいと思った。そんな感想をもった。

 

 その次は井伏鱒二の「屋根の上のサワン」という話を読んだ。これは傷を負っていたため、拾って手当をした雁がどこかに行ってしまいはしないか、ということを心配した私について書かれた話である。

 雁は秋になったある夜ふけ、屋根の上に行って鳴いている。私はそれを心配し、サワンにどこか行ってほしくないため、「サワン! 屋根からおりて来い!」ということを言う。そして雁の羽根を、それ以上に短くすれば傷つくほど、短く切っていった。

 当たり前ではあるが鳥は飛ぶので、屋根の上にのぼったら、飼っている方は心配する。そしてその心配したようすがみれたのがよかった。手元にあるのだが、読んでいない、水上勉の「ブンナよ、木から降りてこい」という話は題名的にこれと似たようなものなのか...いつか読んでみたい。

 

 

 以上、空間的な高さをつかった話を三つ読んだ。「空の怪物アグイ—」では、空に大事なものが現れる、ということが書いてあった。「エロストラート」では、高さは優越感を感じるものである、ということがでてきた。「屋根の上のサワン」では鳥が屋根にいると、どこか行ってしまう可能性がある、それで飼い主は心配する、ということが書いてあった。

 ほかにも空間的な高さが出てくる話は多くあるが、印象にのこれば書いていきたい。

 

今回読んだもの

・大江健三郎、「空の怪物アグイー」(『大江健三郎全作品6』に収録されている)、新潮社、1969年(7刷)

・サルトル著・伊吹武彦、白井浩司、窪田啓作、中村真一郎訳、「エロストラート」(『水いらず』に収録されている)、新潮文庫、2003年(47刷)

・井伏鱒二、「屋根の上のサワン」(『山椒魚・遥拝隊長 他七篇』に収録されている)、岩波文庫、1993年(第41刷)

 

山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

山椒魚・遙拝隊長 他7編 (岩波文庫 緑 77-1)

 

 

参考

屋上について前に書いた記事ー菊池寛著「屋上の狂人」を読む・屋上のイメージ

田中康夫著『なんとなく、クリスタル』を読む

 前々から気になっていた『なんとなく、クリスタル』(新潮文庫)を読んだ。この本には多くのブランドが登場する。また、ブランドには多くの注釈がついている。数えてみると、213ページのなかで442もの注釈がでてきた。右ページに本文があり、左ページが注というスタイル。これだけ注釈の付いた話は読んだことがなかった。

 内容はモデルで大学に通っている主人公、由利の交友関係や恋愛について。斬新なところはブランド名や場所の名前、バンドの名前などが数多く出てくるところとその注。

 どんな感じで注がでているのか、...引用する。*1

一年生の夏休みに、私はシドニーへ出かけた。向こうで、リトル・リバー・バンド(334)やらピーター・アレン(335)やらのレコードを、買い漁って帰ってきた。[...]キャロル・ベイヤー・セイガ—(336)も好きだと言った。よもや知っているまいと思っていた、ポール・パリッシュや(337)、ビル・ラバウンティ(338)まで[...]

 

334●リトル・リバーバンド オーストラリア出身のグループ

335●ピーター・アレン オーストラリア出身のシンガー=ソングライター。「ドント・クライ・アウト・ラウド」の作者。

336●キャロル・ベイヤー・セイガ— メリサ・マンチェスターとの共作も多い、女性のシンガー=ソングライター。

337●ポール・パリッシュ ジャクスン・ブラウンの弟、セヴェリン・ブラウンのアルバムに、アレンジ曲の提供で参加したこともある、あまり知られていないシンガー=ソングライター。

338●ビル・ラバウンティ 「ブルーアー・ザン・ブルー」を歌っていた、マイケル・ジョンソンとコンビで作った曲も多い、シンガー=ソングライター。

 

(p.138-141)                            

 こんな感じである。引用したところは洋楽のバンドのグループばかりで、疎いため、知らなかった。田中康夫は音楽に詳しいと思った。それ以外にも、もっと馴染みのある地名なども出てきた。

 

 田中康夫はブランドは、別に物質的ブランドばかりではなく、精神的ブランドも存在するという。例えば、芸術院の会員であること、一部上場会社の部長職にあることなど。(p.221) 田中康夫のいうように、精神(所属)にもブランドがあるとすれば、かなり身の回りにはブランドが存在する、と思った。あまりよくいわれないのは高いブランドにこだわるひとだろうか。しかし、ブランドは値段が高い安いというのとは関係なく、なにか特徴づけるものがブランドではないか、というふうに考える。パッと思い浮ぶのはすきな作家やすきな有名人。こういうものもブランドといえるのではないか。そういった意味では自分はかなりブランドがすきな人だというふうに思う。

 『なんとなく、クリスタル』では多くのブランドと注が出てきたが、それぞれの単語を知らない人にとっては苦痛だろうが、知っている人にとっては、知っている単語が連続して出てきたら、嬉しいのだと思う。

 

芥川龍之介の『葱』

 これは前読んで、記録として記事にしたことがあった。『なんとなく、クリスタル』を読んでいて、多くの単語を交えて書いている話として、芥川龍之介の『葱』を思い出した。ちくま文庫のもので16ページなのだが、そのなかで注釈は63こ出てくる。といっても芥川本人がつけたのか、ということは明らかではなく、もしかしたらちくまの編集者がつけたのかもしれない。が、いずれにせよ、多くの注釈がでてくる話である。内容は女給仕が二人出てきて、そのうちの一人のお君さんは趣味が多くある、そしてお君さんの恋についてかかれている。どんなふうに注が出てくるのか、以下引用、趣味の多いお君さんの二階の部屋の描写。

 その茶ぶ——机の上には、これも余り新しくない西洋綴の書物が並んでいる。「不如帰」(1)「藤村詩集」(2)「松井須磨子の一生」(3)「新朝顔日記」(4)「カルメン」(5)[...]最後にその茶箪笥の上の壁には、いずれも雑誌の口絵らしいのが、ピンで三四枚とめてある。一番まん中なのは、鏑木清方君(6)の元禄女で、その下に小さくなっているのは、ラファエル(7)のマドンナ(8)か何からしい。と思うとその元禄女の上には、北村四海君(9)の彫刻の女が御隣に控えたベエトオフェン(10)へ滴るごとき秋波(11)を送っている。[...]

 

(1) 徳富蘆花作。明治31~32年国民新聞に連載。日清戦争を背景に片岡中将の愛嬢浪子と海軍少尉川島武男の悲劇を描き、当時評判になった小説。

(2) 島崎藤村の詩集。明治37年刊。「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」を合本して一巻としたもの。

(3) (1886~1919)。大正初期最も人気のあった新劇女優の先駆者。「ハムレット」のオフィリヤ、「人形の家」のノラ、「復活」のカチューシャなどに出演。大正8年一月、島村抱月の後を追って自殺した。「松井須磨子の一生」については未詳。

(4) 岡本綺堂の戯曲。一幕物。大正元年作。

(5) "Carmen"フランスの作家メリメの小説。1845年刊。スペインを背景に、ジプシイの女カルメンを女主人公とする熱狂的恋物語。

(6) (1878~1972)。日本画家。鏡花の小説の挿絵などを書き、のち、文展などに出品。大正・昭和における代表的美人画家。「元禄女」は江戸時代元禄期の美女を描いた傑作。

(7) S. Raffaello(1483~1520)。イタリアの画家。聖母画「マドンナ」は特に有名。

(8) Madonnna イエスの母。聖母マリア。

(9) (1871~1927)。明治・大正・昭和の大理石彫刻家。大正13年帝展審査員となる。

(10) L. v. Beethoven(1770~1827)。音楽家のベートーヴェン。その肖像画。

(11) いろめ。よこめ。

 

(p.256-257)

 

 ベートーヴェンや島崎藤村など、いくつかは分かる単語はあるが時代的に分からないものもあった。

 

 

 以上、単語がよく出てくる話を挙げた。 

 

 

 

今回読んだもの

田中康夫、『なんとなく、クリスタル』、新潮文庫、1985年

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

 

 

参考

芥川龍之介、『芥川龍之介全集3』、ちくま文庫、2017年(第18刷)

 

*1:本来は『なんとなく、クリスタル』では注の付け方は小文字で数字のみだった。が、そうするとスマホの表示の時に文字が崩れたため、()のなかに数字を入れた。

銀座に行って写真をとる

 おととい成瀬巳喜男監督の『女が階段を上る時』をみた。そのなかに、銀座の、主にバーの看板をうつしたシーンがあって、とってみたくなったため、昨日、銀座に行ってきた(8月12日)。以下、iPhoneでとった写真。まずはモノクロ(iPhoneではフィルターを切り替る機能があり、モノとノアールに切り替えて撮った)。

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 あまりうまくとれたとは思わない。

 成瀬巳喜男監督のものは、もっと、路地が狭かったような気がする。というか路地裏だったか…。いくつか路地を探したのだが探してもなかったので、今回は看板が多いところをとった。しかし、看板にライトがついているものは、文字が映らなかった(技術力の問題だと思う)。が、なんとなく看板は白黒でも色の強弱が出たような気がするところはいいと思っている。成瀬監督の映画の看板は、もっと縦にばらつきがあったような気がする。そこが雰囲気が出ていてよかった。今回とったものは看板が縦に並んでいた。しかし、いろいろ気づけたのはよかった。

 

 

 次はふつうにとった。看板ではなく、単に印象にのこったところ。

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ランボーについて

 ランボーの詩はしばしば寺山修司や三島由紀夫が引用しており気になっていた。今回は新潮文庫から出ている『ランボー詩集』(堀口大學訳)で印象にのこったところを紹介する。理解したわけではない。二つ。

 一つめは「わが放浪」という詩の一番最後の箇所。

[...]奇怪な影にとりまかれ、僕は作詞にふけっていた、ボロ靴のゴム紐を竪琴の絃に見立てて弾きながら、片足はしっかりと胸に抱えて! (p.70)

 もう一つは「地獄の一季」というもののなかの「最高の塔の歌」というところの途中。

[...]食いたいものはあるにはあるが土だの石が食いたいのだ。毎朝、僕が食うものは空気だ、岩だ、鉄、石炭だ。[...] (p.135)

 

 ひとつめは作詞で琴(ボロ靴)をもっている、という表現がいいと思った、片足はしっかりともって。

 ふたつめはなぜ石や土を食べるのか、気になった。

 

  寺山修司の『さかさま世界史 怪物伝』という本には、ランボーについて取り上げた章がある。そこでは寺山は、実際は居もしなかった登場人物を出している。そして、ランボーについて書くとなると、ウソをついてみたくなるという。以下、その部分とその後の引用。

実は木島兄弟の話は、うそである。私は玉突屋の二階に住んだこともなければ、男同士の夫婦を見たこともなかった。だが、ランボーについて書くとなると、なぜかこうしたうその一つぐらいはついてみたくなるのである。ランボー、それは私の逢ったことのない友人の一人であった。私はこの名を口ずさんでいるだけで、何となく心がかきたてられる。ランボー! どうぞ音読してもらいたい。 ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! ランボー! (p.225)

 

参考

ランボー著・堀口大學訳、『ランボー詩集』、新潮文庫、2014年(90刷)

寺山修司、『さかさま世界史 怪物伝』、角川文庫、1980年(11版)