本谷有希子著「異類婚姻譚」(第154回 (2015年下半期) 芥川賞受賞作)を読む

内容

 夫婦が似たものになっていくという話。

 主人公である私(サンちゃん)は前に働いていた仕事が激務で体調を崩して悩んでいたとき旦那と知り合った。旦那は「無理して働かなくても大丈夫」といってくれた。私は専業主婦という看板を出してはいるものの朝食後は食洗器、洗濯は洗濯機が乾燥までしてくれて一体だれが自分の家の家事をしているのかたまにわからなくなるときがある。

 

 サンちゃんの近所にはキタヱさんという猫を飼った人が住んでいる。キタヱさんは猫の粗相が激しくなってしまい、猫を山に捨てることにする。

 

 話の終盤では、サンちゃんの夫は次第に会社に行かなくなりついには医者に行って有給をとり、家事をし、私にだんだんと近づいてきて、私がどういう決断をしたのかということが書かれている。

 

感想

 キタヱさんが山に猫を捨てたということが後々作品でつながっていくという構成がうまいと思った。

 話にはipadやネットオークションという今日目にする言葉が出てきた。それは馴染みがあって読みやすくていいのだが、例えば芥川賞をとったもので大庭みな子の「三匹の蟹」では「ゴーゴークラブ」という言葉が出てきたが自分はこの言葉を知らない、そのためか(古くさい)と思うところがあった。ipadやネットオークションというのもいつかは(古くさいな)と思われるかもしれない。

 だんだんと夫婦が似てくるということは聞いたことはあったが、それはどちらかというといい意味で捉えていた——好きなところがあるからその真似をし、しだいに似てくる。しかしこの「異類婚姻譚」のように夫婦が似てくるということが妻と夫という二人の生活を送るうえでいいとは言えない方向に向かうということもあるのだとわかった。夫婦であるが好きだという感情がそんなにない、その夫婦が似てくるというこの話はどことなく不気味だと思った。「いいとは言えない」といってもそれは二人の生活においてであって、夫からすれば妻のように外で働かずに、ときおりだれが家事をしているのかわからなくなるほど家電にたよっている、という状態は望んでいたことかもしれない。これは夫にとってはいいことである。生活の役割の分担を考えさせる作品なのかとも思った。

 

 

参考

今回読んだもの 本谷有希子、「異類婚姻譚」、講談社文庫、2018年

久米正雄著「受験生の手記」を読む

 久米正雄は芥川龍之介と親交があったということから作品を前々から読んでみたいと思っていた。長編の作品もあるようで図書館で手にしたが長さに圧倒された。そのため短いものを読むことにした。いつかは長いものも読んでみたいと思っている。

 

 「受験生の手記」は1917年(大正7年)の作品である。 

 

内容

 主人公は一高受験に去年失敗した私で田舎から上京してきて、千駄木の義兄の家に住ませてもらっていた。そこに日曜日ごとに来る澄子さんに恋していた。澄子さんは私のことを慰めてくれる。

 私には弟がいる。弟も同じ一高に受けるために上京してきた。年齢は違うが、私は去年失敗したので二人とも一高を受ける。私は弟が来て勉強しづらいので水道端の友人の隣に引っ越した。弟はしだいに澄子さんと仲良くなり私はそのことを嫉妬するようになる。

 

 弟は、一高に受かったが私は駄目だった。そして……というように続く。

 結末は題名からもなんとなく察しがつくと思う。

  

感想

 手元にあるものが原文かはわからないけれど、相当ふるいものだと思う。しかし読みやすいと思った。

 

 この話の最後の方はいい結末だとは言えない。関わる人物がだいぶ違うといえど、本作と受ける学校が同じということと結末がよくないという意味では城山三郎の「素直な戦士たち」を思い出した。そのような作品はほかにも多くありそうだが。試験を受けることが書いてある作品はよくない結末にもってきやすいのだろうか。

 

 印象にのこったところは澄子さんの顔についてかかれているところ。際立って美しいというわけではないという後に続く文を引用する。

 (以下読んだものだと「忄靑」、「氵孚」となっていたがパソコン入力では出てこなかったため「情」、「浮」とした。)

 顔全體の印象は、整つたながらに特長といふものもないが、どことなく活々して、何かの拍子に浮べる表情が、非常に眉のあたりを美しく見せた。殊にそれは眼に於て著しかった。ふと斜に見上げる時、笑ひながら見据ゑる時、わざとらしく見える迄開いた二重瞼の下から、黑眼勝に澄んだ雙眸が、濡れた雨後の日光のやうな輝きを迸らせた。 (231頁)

 

参考

今回読んだもの 久米正雄、「受験生の手記」 (『日本現代文學全集 57 菊池寛・久米正雄集』より)、講談社、1967年

向田邦子著「ビリケン」を読む

 向田邦子のビリケンは前も読んだことがある話でまた読んでみたくなったから手にした。以下話の内容や感想などを述べる。

 

内容

 石黒という主人公が毎朝出勤するときの通りに果実屋があって石黒はそこの主人をいつも見るのが癖だった。その主人は禿げており、てっぺんが尖っていたので石黒は「ビリケン」というあだ名をつけていた。石黒が見るとビリケンも石黒のほうを見る。ビリケンも石黒をじろりと見ないことには一日がはじまらなかった。

 毎朝通っていたものもそこの果物屋で石黒はものを買ったことはなかった。ある時夫婦で知り合いの元へ行く機会があったので二人でビリケンの店に行って、石黒の妻はメロンを買おうとしたがその包みが雑だったので石黒は女房に言って買うのを辞めさせた。それ以来、気のせいかビリケンの毎朝の視線もけわしくなったように思えた。

 

 やがてビリケンは死んでしまった。店にはビリケンはもうおらず、その息子と女房が坐っていた。しかし石黒のほうを見るというわけではなかった。

 ある時石黒の息子がビリケンの店で万引きをしてしまい、石黒は息子と妻を連れてビリケンの店に行った。「店先だとなんだから……」ということでビリケンの女房は家に上がらせてくれた。そこには古本がいっぱいあり、石黒はビリケンは何の仕事をしていたのかが気になった。ビリケンの息子は「父は古本屋をしていた」という。神田の神保堂というところで。それを聞いて石黒は針がどこか突き刺さったような気がした。——

 石黒は三十年前、大学三年のころその古本屋神保堂で万引きをしてしまったことがあったのだ。そのときは神保堂のおやじに説教され、…そこに大学生が一人入ってきてそれがビリケンでこの店の息子であった。

 

 石黒はビリケンの家に上がって手を合わせた、また、神保堂を知っていたのが効いたのか、長男の万引きは穏便にかたがついた。

 

 石黒は思った。(ビリケンは知っていたのか。粘る視線で、じろりと見返したのはそのためだったのか。)

 

 ビリケンの息子は「おやじは毎日必ず日記をつけていた」というので、石黒はそれならば(三十年前、親父につるし上げられていた万引きの犯人が、また店を通ったなどと書いてあるに違いない)と思い、……三十年前の万引きしたことが明るみに出ることになったらどうしようと思い思い切ってこの土地を離れることにした。その手続きを終え、家まで帰ってくる途中、ビリケンの息子が居たので小料理屋に誘った……話は続く。

 

感想

 ビリケンが死んだことの比喩があっさり書いてあったのがよかった。

 以下の場面はビリケンが見るからに大儀そうになっていった場面の後の場面である。

ビリケンの店のまわりにくじら幕がはられたのは、そのすぐあとだった。 (42頁)

  死んだとは書いていないけれど、くじら幕というもので死んだとわかる。

 

 ビリケンが死んだあと、息子が、来た石黒に対して「父親は神田の神保堂で働いていた」ということを言うのだがそれを聞いた石黒は子供のころ万引きをした場所なので小さな針がどこかに刺さったような気がした。その比喩が良かった。

 子供の頃、ゴム羊羹というのがあった。

 ゴムで包んだ中位のソーセージの恰好をした羊羹である。頭のところを針で突つくと、面白いようにブルンとむけて、ツルンとした羊羹が飛び出してくる。石黒にとって、神田の神保堂というひとことは、ゴム羊羹の針であった。 (45頁)

 

参考

今回読んだもの 向田邦子、「ビリケン」 (『男どき女どき』に収録)、新潮文庫、2013年

庄司薫著「赤頭巾ちゃん気をつけて」(第61回 (1969年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 

内容

 この話の時期は東京大学の入試が中止になったころ。主人公はぼく(庄司薫)で、日比谷高校の三年生である。庄司は犬が死んでしまった勢いもあって怪我をしてしまい、病院へ行ったり足を引きずったり、その様子がこの物語全体で書かれている。

 庄司は母親には以下二つのことをよく言われていた——「薫さん、自分のことは自分でしなさい」「薫さん、ひとに迷惑かけちゃだめよ」。その上、庄司の兄がよく言う「みんなを幸福にするにはどうすればよいか」ということも必要と思いつつも、結局のところ母の言っていた言葉から出られていない、というふうに思っていた。

 最後の方では兄の書いたもののなかに『馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説』というのが出てきてこれの最後の方に「逃げて逃げて逃げまくる方法」というのがあるのだが、終盤部では(逃げまくったたところでどうなるのだろうか)と問うている。

 もう一人メインとなる登場人物は由美という人物で薫が幼い頃から一緒に居た。デリケートで気難しいところがあり、よく庄司は由美のことを怒らせてしまう。庄司は由美に「大学に行かないこと」や「ずっと飼っていた犬が死んでしまって足を怪我してしまったこと」を伝えようとしている。

 

 前半は主に庄司が特に女のことであるが逃げるというということが書かれていて周りから(つまらんやつ)と思われているということが中心だという印象。後半はもっといろいろなことが書かれていると思った——みんなを幸福にするにはどうしたらいいか、ということであったり、逃げて結局どうするのかということであったりということなど。

 背景は東京大学の入試が中止されたころなため、庄司の通っている学校の保護者が「東大いけなくてたいへんねぇ」といってきたり、庄司が電車に乗るシーンがあるのだが窓の外ではヘルメット姿の人物がいたりする。

 

感想

 この作品は文量が手元にあるもので90頁超あるのだがその分、話の流れは急展開するというのではなく、間を詰めて書かれていて丁寧で読みやすいと思った。

 作中に「庄司の代より下は学校群だから……」という場面があったが、庄野の日比谷高校の代は東大受験の総本山でありながらも部活動やオーケストラや生徒総会に満員であっていやらしさがあったが、それが庄司より下の代からは変わってしまっていった……ということがかいてあった。そういうようすをみれてよかった。

 

 学生運動のことは書かれている場面もあったが三田誠広の「僕って何」のように主人公が直接団体に入って何か行動するという感じではなかった。

 

 テーマはあることはあるのだろうが、文を読み進めていくとそれがわかっていくというよりかはじりじりと他の要素も交えて広がっていっているという印象だった。

 

選評

 「芥川賞全集 第8巻」には井上靖、石川達三、川端康成、瀧井孝作、中村光夫、永井龍男、丹羽文雄、舟橋聖一、三島由紀夫、石川淳、大岡昇平のコメントが載っている。

 三島由紀夫は以下のようにいう。

 「赤頭巾……」はケストナーの「フェビアン」を想起させる、或る時代の堺目に生れた若者の、いろんな時代病の間をうろうろして、どの時代病にも染らない、というところに、正に自分の病気を発見し、しかもそれが病名不詳で、どう弁解してみても、医者にもわかってもらえない病気の症状、現代の時世粧をアイロニカルに駆使しながら、「不安定なスイートネス」の裡に表現した才気あふれる作品だと思う。目はしのよく利く、物の裏もよくわかる、自己諷刺の能力もある、それで病身なら人の同情も呼べようが、誰も同情してくれない健康な若さ。……この困ったものを、困った風に饒舌体で書きつらねながら、女医の乳房を見るところや、教育ママに路上でつかまるところなどは、甚だ巧い。 (514頁)

 

参考

今回読んだもの 庄司薫、「赤頭巾ちゃん気をつけて」 (「芥川賞全集 第8巻」より)、文藝春秋、1982年

 

大庭みな子著「三匹の蟹」(第59回 (1968年上半期) 芥川賞受賞作)を読む

 第59回は丸谷才一の「年の残り」と今回紹介する「三匹の蟹」が芥川賞の受賞作である。

 

 

内容 

 アメリカにやってきた日本人夫婦の由梨と武がパーティーを開くことになる。けれども由梨はパーティーに来る人々を嫌悪しているところがある。

 パーティーには続々人がやってきて、会話が進む。

 

 由梨はパーティーの途中で「行かなくちゃ」と言って抜け出す。そして(どこだっていい)と思いながら、遊園地に行こうと決めた。そこで桃色シャツの男に出会い、二人の様子が書かれる。

 

感想

 パーティーの途中、会話があったが何をいっているのかは読解力不足で、わからなかった。会話文が多く、心理描写は少なかったという印象。

 題名である「三匹の蟹」というのは、丸木小屋のようである。これ以外にも蟹が出てくるところがあった、また、最初の方には風景描写があった、これらはなにかを暗示しているのだろう、しかし、深くは読まずに終えたので何とも言えない。

 

 話の最初の方、お菓子をパーティーに来る人たちのために由梨が作っているというシーンがある。そのときパーティーに来る人たちのことをよく思っていないという場面がある。そこではお菓子を作っているということが何度も出てきて強調されたという印象がある。読んでいる人の視点をお菓子にもっていくなどの意図があるのだろうか。

 また、話の後半の方、桃色シャツの男と由梨が二人でいるときに、「由梨はかぶりをふった。」という文が何回か繰り返されて出てくる。ここは強い否定を表しているのかと思った。

 

選評

 三島由紀夫は以下のようにいう。

 「三匹の蟹」は、最後の二行が巧いし、短編として時間の錯綜する構成も巧い。桃いろのシャツの男は、わざと無性格、無個性に描きながら、アメリカ人特有のベタッとした、ムーッとしたところは出ている。ただパーティーの会話が、嫌悪と倦怠を作者に伝える手段であるにしても、作者が得意になっているという感じが鼻をつく。しかし、ともあれ、才気ある作品であった。 (491頁)

 

参考

今回読んだもの 大庭みな子、「三匹の蟹」 (「芥川賞全集 第8巻」より)、文藝春秋、1982年