江國香織著「とるにたらないものもの」を読む

江國香織の本は、初めて読んだ。それでもって、エッセイを読む——どんな人なのかな、と思いながら読み進める。読後感は、なぜか、さわやかな感じがした。行間をよくとっていて、片仮名が多かったせいもあるだろう。

ことばが好きなんだろうな、又、こだわりをもっているのだろう、と思うところが多々あった。——例えば、昔から、人を愛称で呼ぶことができないや、カクテルの名前(ネバダ・ネブラスカ)を見つけると、試したくなる、ケーキという言葉には実物のケーキ以上の何かがある、「……けり」で終わらせるのは短くて実用的だ、等。

印象的だったところは、小学校五年の頃に、鉛筆削りでなく、ナイフで鉛筆を削ってくるように言われたが、家に帰ると父親に、「そんなことをする必要はない」といわれ、その時はしなかったが、後になって、ある男に恋したとき、その男は小型ナイフを持っており、桃やライムを切ってくれた……それに、どきどきし、すばらしいと思った、というところだ。要は、禁止されたものに、あこがれを持つということだろうか。それを、鉛筆、ナイフ等で表すことが新鮮な感じがした。水が好きだというのは、独特な感じだ——小学校の頃の、スプリンクラーが好きだった、又、競艇は面白い。あの豪快な水しぶきをみるのが好き——競艇が好きな理由が、水だなんて、と、盲点を突かれた。

シンプルな人なんだろう、と思った。塩が好き、リボンは好きだが、リボン柄は嫌いだと。リボンについて言えば、「箱にぎっしり入れてあるそれは、ほとんど使われることのないまま何年もそこにあるのだが、一本としてくたびれない。……ふたを占めたとたんにくすくす笑いが聞こえるようだ」、というところは、言われてみればそんな感じもする。結び目の間もふわふわしているし、くすくすという表現もあっているのかもしれない。

 

小説だと、また違った感じなのだろうか。

 

参考 江國香織、「とるにたらないものもの」、集英社文庫、2006年

幸田文著「おとうと」を読む

内容 不和な両親のもと、弟の碧郎と姉の関わりを中心に描いたもの。序盤では、様々な疑惑をかけられてしまう(例えば碧郎が学校の子を骨折させたという疑惑や、姉がものをとったという疑惑)。碧郎は、骨折をさせたというという疑惑をかけられたことで、不良仲間とつるむようになる。しかし、不良になっていく、更には盗みをするようにもなるとはいえ、どこか無邪気なところがあった。中盤では、碧郎がボートから転倒したことや、馬を転ばしたことなどがかいてある。それ以降は碧郎の結核がメイン。

——幸田文の作品は初めてよんだ。隙間なく、びっしり書かれ、読みごたえがあった。いくつか印象に残った点を分けて紹介する。

文体の特徴・独特な表現 「……」が良く使われているが、規則性がわからない。例えば、p181の「「花なんてもう……」……「ほんとはあげなくてもいいだろうけどね、……」……「せめて花なんか賑やかな方がいいって気がすらあ。……」というところは、「……」「、……」「。……」の三種類あり、どういう風に使い分けをしているのか気になった。また、会話文は、後ろに例えば「と」があれば、「」で終わるが、なければ、「。」で終わっていた。それから、「来て」ではなく、「来」で終わらせたり、「聴いていて」ではなく、「聴いてい」とすることで、文章が鋭くなるように感じた。

表現が独特なのがところどころあった。「にゅう」や「そぼんとした」、「ぺしょん」、「しゃらん」などは、初めて見た。

自虐的な感じ 幸田文が自虐的だったかわからないが、文章で、主人公のげんを、敢えて下手にみせるところがあったので、なんとなく、自虐的だったのでは、と思った。——姉「きのうあんた橋のところで振り返って笑ったわね、あれどういうわけなの、機嫌がなおった知らせなの?」ー弟「そうじゃないよ。ねえさんがかわいそうだったんだよ。」「なぜ?」「なぜって、とぼとぼしてるみたいだったからさ。」(p12)、「彼(弟)は穏やかに、姉をあわれむ眼つきで見た。「ねえさん案外頭鈍いね。……」(p160)

気に入った表現——

不和ー家の中はつねに強さと強さがこすれあって暗鬱だった(p7)。父母の不和な家は、父母は夫婦という一体ではなく、二人の男女という姿に見える時間が多い(p75)。

天気や自然ー今は盛りと咲いている浪花ばらの袖垣を楯に取った芝生に腰を落として、……(p36)。潮の退くように人が散っていった(p66)。つゆばれの上天気で、さすが塵埃の都会の空も蒼く高かった(p153)。誰のしたことだかサイドテーブルには鴇色のカーネーションが挿してある(p164)。 

寂しさ・哀しさーいずれ母は例によって自室で祈りがはじまるのだろう、げんは台処よりほか居どころはない(p61)。同じく一人でもことしの一人は侘しかった。道は凍てついている。桜は裸でごつごつしている(p76)。ふと、誰か話す人がほしいと思う。……首なしでもそのひとは楽しかった(p82)。連れて行かれたのが自分ではなくてよその人だった、というのでほっと喜んでいるのではない。ほっとしたことは確かだが、喜んではいないのだ。喜ぶよりさきに拡がっているものは、寂しさのようだった。←なんとなく、「風立ちぬ」を思い出した。

病気ーがったりと食欲は減った。一日に何度うつらうつらとするか、そのたびに汗だ。どんどん頬がこけた。まばらな不精髭が伸び、耳のわきまで髪がかぶさっても、もう当人はうっとうしいとも云わない(p172)。舌は舌苔で茶褐色なって、……(p173)。青白い指のさきに伸びてくる爪は、老人の爪と同様に粘り気がなくつやを失っていた(p178)。額にも頬にも顎にもまるで紅みはなく、くぼんでいる部分にはみな隈が出ていた(p194)。←頬・額・顎という漢字は何となく似ている。三つ並べると、どっしりした感じがした。

 

色々なこだわりがありそうだ。他のも読んでみたいと思った。

 

参考 幸田文、「おとうと」、新潮文庫、2006年

中河与一著「天の夕顔」を読む

古本屋でたまたま見つけて、調べたらそこそこ有名だということで、読んでみることにした。著者も本の名前も初めてみた。

ざっくりとしたあらすじ 主人公が20数年間、7歳年上の夫のいるあき子に恋をした。相手も、夫が他の女に恋をしていたということもあり、主人公に恋した。しかし、あき子は不倫をしていていいのかと幾度も悩み、拒絶の手紙を送った。男は一時、それなら山に行ってしまおうと決意したが、やがて戻ってきた。最終的に、あき子は五年後なら会えるということを主人公に言ったが、約束のその一日前に死んでしまう。

感想 男が他の娘と仲良くなったりして、あき子とも疎遠になっていった。その反面、主人公は会いたいと幾度も願っていた。しかし、読後、会ってから何をしていたかというと、あまり思い出せない。初めの方は、本を貸し借りしていたりしたが……。つまり、別れるということに重きを置いていた、別れるのをよしとするような感じがした。それなら、会わないでいいのかというと、そういう訳ではなく、ほんの一瞬でも会えれば、いい(p76)というものなのだろう。

次第に主人公は山で暮らそうと決意する。そこでは、彼女の存在を谷川のせせらぎの様と例えていた(p40)。更には、「この寂しさはしかしこの地上だけではなしに、宇宙そのものさえ、その通りではないのかと思ってみるのでした(p37)」とあり、人間の愛と自然や宇宙のかかわりをえがいていたのが印象的だった。

気に入った表現 上からポンと座布団を、小さい体の上にかぶせたので、本当の饅頭のようになった子供が……(p6)。/それから土産だといって、桜ん坊の籠を出し、話をしながら、まきかえし、繰り返し、ハンカチをもみもみしていました(p10)。/(娘と結婚しようかと悩んでいるときに、あき子の相談したが「そうすれば」といわれ、突っ返された後の場面)ああ、それにしても、あんなに喜びに燃えていきながら、今こんなに寂しく打ち沈んで帰るかと思うと、わたくしはもうたまらなかったのです。天国から牢屋に送り込まれると言うのは、こんな気持ちであろうかと、自分ながらに自分がかわいそうでたまらなかったのです。そしてそのときのあの人は、何やら囚人を送ってゆく典獄(監獄の長という意味)のようにも思われたのです(p48)。←天国と典獄の使い方がうまいと思った。/雪の解けたあとの山は、草が皆寝て、絨毯のようになっています(p80)。/(主人公の手紙は全部読んだよとあき子が言った場面)彼女は楽しそうにその手紙の束を持ってきて、そこに置きました。そこでわたくしは取り上げると、あの人の面前で、それを次々と強く引き裂いてゆきました(p16)。←官能的

参考 中河与一、「天の夕顔」、新潮文庫、2001年

向田邦子著「隣りの女」・「下駄」を読む

前に、「男どき女どき」は読んだことがあった気がするが、これは初めて読む。5作品入ってたけど、紹介するのは二つー「隣りの女」と「下駄」。

「隣りの女」 ざっくりとしたあらすじ スナック勤めの女が隣に住んでいる。その部屋からは話し声が聞こえる。それは、女と男の会話で、男は時によって違う。主人公は隣りの女がどんな女かと興味を持つと同時に、男がどんな人かも気になる。主人公が隣の女のスナックへ、鍵を届けるなどをしていると、そこに男が居合わせるなどし、やがて、隣の男とも接点を持つようになる。やがて主人公は、旦那がいるにもかかわらず、その男とニューヨークへ行くまでの仲になる。旦那は旦那で、妻が留守の間、隣の女とベットで過ごすが……。

感想 文と文の間に使う動作が何げなくて良いと思った。例えば、隣の女が倒れて、主人公が駆けつけた時、「誰か来て」と叫んだ後、[隣の女のまくれたガウンの裾を直した]後に、「110番お願いします」と叫んだり。主人公が、隣の女を助けたことで、インタビューされて、夫のことを「平凡なサラリーマン」と言った後、[冷蔵庫を開け、残り物を指でつまんで食べている]ときに、それを咎めるために夫から「みっともない真似をするなよ」と電話がかかってきたり。もう一つの「下駄」でもそうだったが、駅名が良く出てくると思った。向田邦子は駅が好きなのか。ミシンの音は度々出てくるが、あまりよく分からなかった。「「ー」と言った(した)。それから(同一人物が)「ー」と言った(した)。」というのは、向田邦子の書き方の特徴のひとつなのか。慣れていないせいもあり、誰が言ったのかわからないということがあり、読みづらかった。

 

気に入った表現 集太郎と峰子はもつれ合ってアパートの外階段をのぼった。揺れながら自分の鍵を掛けようとする集太郎の横に峰子は立って、自分の手でカギ穴をふさいだ。目がドアを半開きにした自分の部屋へ誘っていた(p55)←官能的だと思った。/今日に限って、髪にクリップはくっついているし、よれよれのブラウスである(p29)。

 

 

「下駄」の感想 会社でよくとる出前を持ってくる男が主人公の異母弟であったと気付き、その後の二人の様子ややりとりが描かれた作品。この異母弟は寂しがり屋で構ってほしがりで、弱弱しい感じがした。「二人(兄と弟)並んで一緒に献血しないか(p162)」といったり、「父親の身に付けていたものを、何でもいいから一枚、譲ってもらえないだろうか(p163)」と兄に頼んできたり、わざと面倒を見てほしいがゆえに、兄の原稿の上に汁がこぼれるほど強く原稿を置いたり(p175)と、あったが、あんまりそういう男はいないだろうなと思った。もちろんいないこともないと思うが。日記の習慣がある兄が、出前を持ってくる男が異母弟だと気付いた時に、「これは書けないな」と思ったというところは、ビアスの悪魔の辞典を思い出したー

「日記」=自分の生活の中で、自分自身に対して顔を赤らめずに物語ることのできる部分についての日々の記録(ビアス、新編悪魔の辞典、岩波文庫、2010年、p197)。

そう、なぜか日記にはあまりにも恥ずかしいと思うことは書けない。

 

気に入った表現 弟は兄に言った。「俺、あだ名、下駄なんですよ」「俺は牌だよ」(=どちらも四角い)(p157)。/丸くなった物干しは、この寮で流行っていると見えて、どの部屋にも二つずつベッドの上で揺れていた(p165)。/まだらにしみの浮いた、うすねずみ色のコンクリートの壁の前に立って四角い顔に見つめられると、抵抗できないところがあった(p166)。/のんびりした小鳥の声を聞いていると、大したことでもないのに、異をとなえるのがつまらなく思えてきた(p168)。/堅物と思わせて、実はよその女に子どもを産ませ、女も子供も捨てた父にも腹が立った。お父さんに限ってそんなことはあるはずがないと、自分に都合のいいところだけを信じておいた母にも怒りがわいてきた(p171)。

 

 

 

参考 向田邦子、「隣りの女」、文春文庫、1984年。ビアス、『新編悪魔の辞典』、岩波文庫、2010年

井上靖著「猟銃」・「闘牛」を読む

前にも読んだことはあり、又読み返したいと思っていた本。「闘牛」は何となく頭に残っていたが、「猟銃」はすっかり抜けていた。全体の文の印象として、どっしりしていて、漢字が多い。他にも「比良のシャクナゲ」というのも入っていたが、今回は読まなかった。

 

「猟銃」

ざっくりとしたあらすじ

主人公が、とある機関誌に「行きかう猟人の後ろ姿に惹かれた」という趣旨の詩を書いたら、その猟人本人(三杉)が「それは私だ」と言って、「そのような詩を書く人に、ぜひ、私に宛てられた手紙三通を読んでほしい」という手紙を主人公に送ってきた。

三通の手紙とは、それぞれ三杉(狩人)の愛人彩子とその娘嗇子と三杉の妻みどりのものである。彩子は自殺で死んでしまったが、その前日に彩子の日記を薔子が読んだことで、kという結婚相手がいた彩子は三杉と愛人の関係にあったことを知ってしまうが、そこには様々な苦悩があった……。

感想 今回もあまり頭に入って来なかった。まず、言いたいのは、三杉という猟人はよくも、詩を書いたという接点があるだけの人に自分に宛てられた手紙を送ったなということだ。相当孤独で、ほかに見せる相手がいないということなのか。

最後の方に、人はそれぞれ、蛇を持っているという話は、星新一の「やつらのボス」ー老人が弱っているとき、「やつらが来る」といって、蛇が来て老人を食べ、そこには老人の代わりに少年がいたという話ーをなんとなく思い出した。また、愛するのか、愛されるのか、というのはフロムの「愛するということ」を思い出した。この二つ(蛇の話・愛す、愛される)はそれぞれ、物語の最後の方に出てきて、あまり触れられていたという訳ではなかったので、中途半端な感じがした。

印象に残った表現 墨をたっぷりと筆に含ませ、封筒を左手に持って、一気呵成に筆を走らせたと思われるのだが、その筆勢には、いわゆる枯れたとは違った、妙に冷たい無表情と無関心が覗いていて、言い換えれば、その自在な筆勢にのっけからいい気持ちになっていない、いかにも近代人らしい自我も感じられ、世の達筆なるものの持つ俗臭や嫌味はなかった(p12)。/前夜母さんの日記で読んだばかりの、あの、罪、罪、罪とエッフェル塔のように高く積み上げられた罪の文字は……(p32)。/一冊の大学ノートはお水をかけようとバケツを取りに行っている間に、小さい旋風が、枯葉と一緒にどこかへもっていってしまいました(p38)。/チューブから搾ってなすりつけたようなプルシャンブル―の、真冬の、陽に輝いた海の一点(p49)。/家庭というより城砦と呼んだ方が適切(p51)。

 

「闘牛」

感想 これは、編集局長のtが、不断はやらない阪神球場で闘牛大会をすると言う興行にかかわりを持つが、それをするにあたって様々な困難があったという話。

実際に牛が戦っている場面はほんの少しで、興行が大部分。悪天候の中、闘牛をするといったものは結構ベタな感じがした。若い社長のmが、「清涼」という広告を出したいと申し出てきて、断られたにもかかわらず、興行があまりうまくいかなかった後にも再びきて、「花火の中に「清涼」引換券をいれてくれないか」と言ってきたしつこさには笑った。嫌な感じがした。闘牛大会を開くにあたって、いかに困難なのかが伝わってきたのが次の一文ー「リングを造る監督役にW市の協会からせき立てて人を招んだのだが、人が来たら材料の方がなかなか来ない。その竹がやっと今朝着いたら、肝心の監査役のその男は、昨日から風邪で寝込んでいるというのである(p126)。」ーそうか、竹を用意することまで考えているのかと感心させられた。

 

 二つとも、あまり褒めたことは書いていないが、なぜかまた読みたくなる。

 

参考 井上靖、「猟銃・闘牛」、新潮文庫、2011年